ナオ、歌う

 楠本ナオは自然体で立つ。入っていた余計な力を抜いた。


 口を開く。息を吐ききる。空気を吸う。淡く、香気が混ざった。肚の底まで、行き渡らせる。吐く息に、声を乗せた。歌い始める。


 伸びやかな声。小さな体のどこに、そんなパワーがあるんだと評される。迫力のあるステージが持ち味だ。野外の分、存分に発揮された。


 ポッ。右手が熱を帯びる。歌いながら、ナオは両手を胸元まで挙げた。右の手のひらに、視線を向ける。感情線と頭脳線の間。横並びに、二つの黄色い砂粒。日常生活では、忘れている代物。明るい黄色に光る。


 ナオの脳裏に浮かぶ。明るい黄色の髪の男。白い肌に映えた。名前を、シキミと言ったか。


『かさぶた代わりになる物だよ』


 うっとりさせて、男女問わずに狂わせる。魔性の声で、シキミは教えた。小さな頭に対して、大きめの黒縁眼鏡の奥。黄色の瞳は、含んでいた。当時のナオは、読み取れなかった。隠している事について。


 不思議な力が宿っていたとは。


 床を這うほどの長い髪。能力を維持するためとはいえ、手入れが大変だろうと同情した自分が恨めしい。『かさぶたの代わりになる物が、只の物な訳がないだろう?』。ナオは空耳と判っていても、腹が立った。


 明るい黄色の光が、手のひらから指へ。指先で折り返す。手首を通って、肩へ。胸元で、上下に分かれる。頭と足を回った後、合流して全身を駆け巡る。


 熱に浮かされた時と同じ、高い体温。体がふらつく。ナオの脳裏をよぎる。歌うのをやめようか。たかが……。


 ナオは視線を感じた。足下の灰色の根。地表と地下をうねりながら、伸びる先。生えている苔を避けて腰掛ける、幼い女の子。白いTシャツに、赤いジャンパースカートを着た。隣に座る、黒い毛のウサギと共に、心配そうな顔をしている。


 一人と一匹でも、客は客。最後まで、聞かせるのがプロの歌手だ。ナオは思い直した。


 ナオは意識する。歌詞の意味、こめられた思いが客に伝わるように。一語、一語を明確に。声に感情を乗せる。脳裏に情景が浮かぶ。客にも、浮かぶと良い。


 様子を伺う。ナオは目を疑った。え? ……。ウサギが二……。女の子が腰掛けていた、箇所。白い色の毛のウサギがいた。ピン、と、立てた二本の耳。黒い毛のウサギと同じく、内側のピンクの部分が自分の方を向いている。


 姿が変わっているなら、黒い毛のウサギが……。うるうるした黒い瞳、両前脚を上下に動かす。興奮しているウサギが、気づく訳がなかった。藤籠バッグを買った時に、ついてきたおまけ。ロッティーと名付けてやったのに。


 まばたき、一つ。幼い女の子。ナオの見間違えだった。


 喜んでくれているのなら。


 ナオの感情が高まる。もっと、遠くに歌を届かせたい。地平線の彼方まで。


 駆け巡っていた、明るい黄色の光。ナオの意志を読み取る。足を伝って、根に潜る。


 うねりながら、根元へ。上下に分かれる。一つは、太さはあるが、高さがない幹に沿って登る。傘のように、広がる枝葉。密集した箇所を、透いたように薄くなった先。開いた穴から、宙に飛び出た。


 透き通った、青い空。地平線まで広がる、大樹の群れ。太陽の恵みを受け取るために、皿のように枝葉を伸ばした。まるで、天を支えるみたいだ。起伏の少ない大地に、人の姿はない。点々と、白い花が咲く。気配を求める。空へと駆け上がり、吸い込まれた。


 どっしり、と、黒色の大地に根をおろした大樹。積もった枯れ葉の隙間や倒木に、新たな芽が出る。若木もちらほら。こちらにも、人の姿がない。もう一つが、うねる根に沿って、地下に吸い込まれた。


 ふっ、と、息を止める。息をつく。ナオはまぶたを閉じた。余韻にひたる。喉の調子が良い。声の伸びも、申し分なかった。低音域から高音域まで、無理なく出ていた。これなら、本番でも、大丈夫。


 静まり返る。鳥のさえずり、虫の羽音や風の音すらしない。


 一拍、置いて、万雷の拍手が起きた。ナオの心臓が音を立てる。

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