第二〇話「ジャック」

 時間がない……

 直人が律義にも、箱の中身を一箱づつ丁寧に確認して行ったので、作業には思いの他時間を要していた……万が一箱の中に爆発物や、魔法の類が仕込まれてあった場合、渋谷区清掃事務所に甚大な被害を与えることになるからだ。

 そして箱に貼られた送り状には《桐生直人・唯様》の名前が刻銘に記載されているのである……

 無論箱の中には一片の愛の欠片かけらさえも入ってはいなかった……直人の期待するパンティーの“パの字”も無かったのである!

 直人が不毛な仕事にどんよりとしょげかえっていると、リビングを陣取る美晴医師が、突然背後で艶めかしい声を上げた。


「いや~~ん♡ ジャック~~♡ 私のジャック! 先に行かないで~~♡♡♡」

 …………一体何事だろうか!?

 今何が起きているんだ!?

 背後を振り返っても良い状況なのだろうか!?

 まさか……まさかだ……

 人の家のリビングで“ジャック”を使って嫌らしいことでもしているのだろうか!?

「……………………」

 直人は一抹の心配……等ということは決して無く……一抹の期待と共に勢いよく背後を振り返った!

 ……そこには、既に底の尽きた “ジャック”の先端を、舌でレロレロと嫌らしく舐め回す美晴医師の姿があった。瓶の形状が形状だけに……健全な男子高校生の直人としては、Hな気分以外になることは不可避だった!

 ジャックに! 今直ぐジャックに成りたい!!

 ……それにしても……いらん期待をしすぎて損した……もっとあんなことやら、こんなことまで……否、更にその奥深くまで……ゼーハー、ゼーハー……

 直人の脳内で禁断のエロい妄想が幾何級数的に膨れ上がって行った。

 しかしながらそんなことは実際、極めて些細な杞憂に過ぎなかった。

 既にジャックを一滴残らず飲み干した美晴医師は、へべれけの状態だったのである。

 これではヒール魔法が期待できない!

 自分が望まないリストカットをしたら一体誰が治すんだ!

 病院にでも行けばいいのか?

 しかし……

 医師はここにいるんだぞ……へべれけだけど。

 そんな訳で……どんな訳だ! 美晴医師の暴走は歯止めが効かなくなっていた。

 美晴医師は直人と目が合うや……

「店員さ~~ん! おかわり~~~~♡」

 等と言って上目遣いでオーダーを催促してくるのだ。

 ……弱みを握られている相手ではあるが……直人は流石に一言言うことにした……それは彼にとって苦渋の決断だった。


「ちょっと美晴姉さん! 俺がリストカットしたら誰が治すんですか!? 頼みますから仕事して下さいよ!!」

「あらあらあらあら……このアホ店員!……この……この私に説教する気~~!? バーテンなら私のジャックをさっさと持って来なさいよっ!!」

 美晴医師は既に直人と店員の見分けが付かなくなっていた……

 この人は……俺達の家を完全に酒場だと思っているに違いない。

 もう駄目だ……何を期待しても無駄だ!

 俺は一人でも仕事を成し遂げてやる! 唯やデュランダル、そして何より渋谷区清掃事務所に迷惑をかける訳にはいかないのだ! 勇者としてではない! 一人の人間としてやらなければならないことだと思えたのだ。自分は箱の中身の安全性を確認する必要があるのだ!

 直人は酒臭い美晴医師を尻目に黙々と仕事を続けた。二三箱……二四箱……

 しかしそんな直人の心意気を美晴医師が容赦なく打ち砕いて行く……

「店員さ~~ん♡ 私もう飲めな~~い。もう駄目だったら~~♡ 今日は先に寝かせて~~♡ お願いだから~~私をベッドに連れてって♡♡♡」

 その時、直人の中で何かが弾けた。

 ……コイツ駄目だ!

 駄目な大人だ!

 そして全く集中できない!

 コイツは俺の家に一体何をしに来たんだ!!

 ……はっきり言って一緒に仕事をしたくないタイプの人間だ。

 そこで直人は美晴医師を自分のベッドに寝かせて、仕事をさっさと済ませるという作戦に移った。

 それにこの作戦には別の利点もある……

 ベッドには美晴医師の残り香が少なからず移る筈……フフフフフ……ハハハハハ……ハーハッハッハーー……今夜は良い夢を見られるに違いない……

 直人は良からぬ妄想に、胸やらいろんな場所やらをこの期に及んで膨らませた。

 それにもしリストカットしたら、その都度ではなく後でまとめて治して貰えば良いのだ。

 ともあれ……仕事中に仕事が増えた……それは使えない同僚を寝かし付けるという、メンタルに堪える仕事だった……

 美晴医師をお姫様抱っこして、二階にある直人の自室へと運ぶ。

 美晴医師は “ジャック”を固く握り締め、上気した頬で目を閉じて、夢うつつの状態だった。

 ……改めて見ると圧倒的に美人さんだな……整った顔立ちにサラサラロングのストレートへアー、スレンダーではあるが、出るべき所は完璧に突き出ており、ワンピースが優美な曲線を描いている。

 俺はこの人と…………

 全く記憶が無いけど……

 それにしても……もしこの状況を他の誰かに見られたら完全にアウトに違いない。

 直人の頭の中で三面記事のタイトルがでかでかと躍った……

《最弱勇者、桐生直人――顔見知りの女医にいかがわしい行為を強要! スライムに負けた腹いせか!?》等と書き叩かれるのだろうか? 

 死肉さえも漁るマスコミ共に、有ること無いことをでっちあげられて、物笑いの種にされるに違いない……


 自室のドアを開ける……それにしても何という美味しいシチュエーションであろうか!? 仕事とはいえ、白昼堂々自分の部屋に女性を連れ込んでいるのだ! 妹と二人暮らしの自分にまさかこの様な日が来ようとは!?

 美味しいシチュエーションが更に続く……

 移動中にワンピースの片側がずり落ちて、今にも双丘の一つが露わになりそうだったのだ……直人は無駄に深呼吸を繰り返した。

 煩悩を払わなければ、何をするか分からない自分がそこにいた……

 そんな直人の気持ちを知ってか知らずか? 美晴医師は直人の首に腕を回して、深く抱き付いて来た。危うく手に持ったジャックがズリ落ちそうになる……そのタイミングで彼女からジャックを取り上げておく……

 独り言だろうか!?

 美晴医師は直人の腕の中で「ジャック先に行っちゃダメ~~♡」とか「今夜は寝かさないわ♡」とか「一滴残さず飲み干してあげる♡」などという煽情的な言葉を連発した……

 り……理性がどうにかなりそうだ!

「落ち着け~~落ち着くんだ桐生直人!!」

「今が人生の正念場だ~~!!」

 直人は念仏の様にその言葉を繰り返していた。

 彼の中で人間としての理性と、猿顔負けの生殖本能が全面戦争を繰り広げていた。

 深呼吸を繰り返しながら爆発しそうな心臓と震える手で、何とか美晴医師を自分のベッドへと押し倒す……ではなく寝かし付ける……

「ふう~~~~~~~~~!!」

 直人は額の冷や汗を拭った。

 これで一安心の筈だ……ようやくにも仕事に集中できる。

 直人は美晴医師の色香と、部屋に充満するアルコールの匂いに耐え切れず、とりあえず自室の窓を全開で開けておくことにした。

 酒を飲んだことの無い直人には彼女の今の状態は分からないが、直人はとりあえず一声かけておくことにした。

「美晴姉さん。しばらく横になっていて下さい。仕事が終わったら起こしに来ます」

「いや~~ん♡ ダメっ♡ まだ行っちゃイヤ♡ 一晩中お姉さんとしよう♡」

「うっ……うわあ~~~~~~~~~~~~~~!!」

 直人は絶叫しながら、崩壊寸前の理性で、何とか自分の部屋から脱出した。

「あ……危ない所だった……」

「心臓に悪すぎるぞ!?」

「とにかく距離を取れ……桐生直人! 奴の間合いではこの勝負には勝てない……」

 一体何の勝負かは不明だが、直人はその様に独り言を言うと、取り急ぎ階段を降りてドピンク色に禍々しく染まる桐生家の自室を後にした……


「お姉さん……服を着てると寝れないタチなの……」

 ……直人の部屋では、新たな時限爆弾のスイッチが押され、妹とは別口でカウントダウンを始めていた。

 泥酔した美晴医師は、直人の部屋を自分の部屋と勘違いし、身に付けていた衣類を一枚づつ宙に放り投げながら脱ぎ捨てて行ったのだ……


 ――直人はリビングで自分の仕事に戻っていた。

 自室で何が起きているのかは、その時の直人には知る由も無かった。

 ……幸い唯が帰って来るまでまだ三時間以上ある。

 見落としの無い様に、箱の中身を確認しながら、カミソリを他の段ボールへと移し替えて行く。

 たまに油断して落下したカミソリに指やら腕やらをカットする事故が起きたが、応急措置としてバンドエイドを貼ってその場を凌ぐ……

 それにしても……美晴医師は一体何をしに我が家に来たのだろうか???

 ほとんど何の役にも立っていないではないか!?

 加えて美晴医師が“ジャック”とだけ執拗にイチャ付いていることに、直人は苛立ちを覚え始めていた。もはや“ジャック”は単なるウイスキーブランドなどではなく、恋敵として彼の中で認識されつつあったのだ……

 ――そんな直人だったが、突如現実へと引き戻された。

 不意に玄関のチャイムが鳴らされたのである。

 ピ――ンポ――ン、ピ――ンポ――ン……

 一定の間隔を置いてチャイムは鳴り続けていた。

 直人は仕方なく作業を中断し、リビングに設置されたカメラ付きのインターホンへと急いだ。霧生家のインターホンは、客がチャイムを鳴らすと同時に、仕掛けられたカメラが外の様子を映しながら記録もするという代物である……つまり安全な家の中から来客の姿が見れるのだ……たまに“一撃の田中”が映っていたりして、心底がっかりする時もあるのだが……

 直人はインターホンにある通話ボタンのスイッチを押した。

「どちら様でしょうか?」

 直人は身構えていた。

 仮に来客だとしても、今だけは家に上げる訳にはいかない……二階にはへべれけの状態の女性が自室で眠っているのだ……

 あらぬ噂を立てられる訳にはいかない……直人は来客を呈よく追い払おうと決めていたのだ。

 しかし、次の瞬間直人はその場で完全に凍り付いていた。

 インターホンから他の誰よりも聞きなれた声が聞こえて来たからである。

 ――妹の唯だった。

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