第一四話「白い粉」

 直人が玄関のドアを開けた。

 僅かに開けたドアの隙間から、唯が子猫の様な敏捷な動きですかさず中に入る……無論後ろは一切振り返らなかった。唯とて一秒たりとも長く、奴等の顔を見たくないに違いない……

 唯が無事に中に入ったのを確認し、直人が後ろ手にドアを閉めた。

 奴等のアドレナリンをたぎらせた油ギッシュな顔は、はっきり言って見たくはない……奴等は魔法で自分の顔面にモザイク処理をかけるべきだ……俺の愛する18禁の動画の様にな! 直人は心の中で毒突いていた。

 ガチャリ、ガチャリ。

 ドアの二重ロックの鍵をかけて、ドアガードをしっかりかける。

 スライムとの戦闘でボロボロに変わり果てた靴を脱ぎ、いつも兄妹でくつろぐリビングに二人で入る。

「はあ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ」

 兄妹は揃って溜息を付いた。まるで明日地球が終わるのを知ったかのような大きな溜息だった……

 唯はリビングのソファーに背中から倒れ込み、直人はリビングに入った瞬間膝から崩れ落ちていた。

 スライムとの戦闘以来、常に張りつめていた緊張の糸がようやくにもブツリと切れたのである。

 勇者になって以来、外は敵だらけだった。

 そして病院での一件で、敵は怪物だけに限ったことではないということをつくづく思い知らされたのだ。

 生死の境を彷徨った挙句、兄妹はようやくにも安心してくつろげるホームへと帰って来れたのである。

 ここには勇者の監視を四六時中行う自称SPや(家の一歩外ではたむろしている……)、人のゴシップを食い物にする醜悪なマスコミやパパラッチ、勇者を罵倒する一般市民、物笑いの種に飢えたクソガキ(お子様)、そして何よりも勇者の一挙手一投足を監視するドローンはいないのだ……

 唯はソファーからゆらりと立ち上がると、溜まり続けていた信条を吐露した。

 血の気の通わない蒼白の顔が痛々しかった。


「兄さん! 私もうヤダ! こんな生活耐えられない!」

「スライムに喰われて、溺れて、死にかけて、肺洗浄で死ぬ程苦しんだわ!」

「何とか命を繋いで退院したら、あんな酷いことまで言われて……」

「何故私達兄妹がこんな酷い目に遭うの!?」

 唯は叫んでいた。目には大粒の涙が溜まっていた……

「………………………………」

 直人には返す言葉が無かった。責任の一端は自分にもあるのだ。

 唯は膝立ちの直人に詰め寄ると、兄の両手をしっかりと握り締めた。

「逃げましょう兄さん! 私と二人で! 地の果てまでも!」

「…………!?」

 ……妹と愛の逃避行……だと!?

 大変魅惑的な提案ではある……まあ、実際に愛があるかどうかはともかくとして……

 しかしだ!

 俺達は一度逃亡に失敗しているのだ……正確には未遂だけど……奴等のフットワークの良さときたら……群れで小鹿を執拗に追い込んで行くハイエナの様だ……逃げ切れるとは到底思えない。

 それに勇者の逃亡は死刑だ!

 自分はともかく、妹が死刑になることに耐えられる兄が果たしているのだろうか!?

 絶対に否だ!

 直人は立ち上がり唯の目を真っ直ぐに見つめ返した。

 一度失いかけた大切なものを両腕でしっかりと抱き締める。

 直人は唯に語りかけた。

「唯、落ち着いてくれ……家の外にはデュランダルの監視の目が光っている……アサルトライフルを持ったな……」

「今は色んなことが有り過ぎて、混乱しているんだ」

「幸い俺達は家に帰って来た。少し落ち着いてから、今後のことをゆっくり考えよう」

「それと…………済まなかった」

「えっ!?」

「お前に酷い思いをさせた。責任は全て俺にある」

「お前がスライムに喰われた時思ったんだ……」

「絶対に失いたくないって」

「………………………………」

「恐かったよ……身体の一部を失った様に思った。取り返しの付かないことが起きたと思ったんだ……唯、お前は必ず俺が守る。自分の命に代えても、絶対にだ!」

 唯は涙が零れそうになり上を向いた。

「兄さん……」

 妹の華奢な身体が腕の中で小さく震えていた。

「分かったわ……少し落ち着いてから考えましょう……」

「それに、私も悪かったわ。敵がスライムだと思って油断し過ぎていたのね」

「次は……絶対に負けないわ!」

「そうだ! その調子だ唯!」

 直人は唯を励ましていたが、結果的に自分自身をも励ましていたのだった……

 

 しかし今だけは、何よりも休息を取ることが重要なことの様に思われた。

 五刀流のスライムとの激闘の疲れが全身に溜まっているのだ。

「唯、まずはテレビでも見て落ち着こう……」

 直人はテレビのスイッチを入れた。

 この時間帯は兄妹の好きな旅物のクイズ番組がやっている筈だ。ギャラを貰いながら世界中を旅行できるリポーターが羨ましい限りである……

「座っていていくれ、俺がお茶を淹れる」

「……………………」

 そう言うと直人はカウンターキッチンでお茶の準備を始めた……お湯を沸かしながら久方ぶりに最愛の妹を見つめる……

 ソファーに深く腰掛ける唯の顔は蒼白く精気が無かった……

 ほとんど空寸前まで下がったヴリルが未だ回復していないのだ。

 医者からは「今の唯さんのヴリルは、通常時の三〇パーセントです! 絶対安静にして下さい。それと……変な刺激は与えないで下さいね」と釘を刺されている。

 直人の妹への視姦行為は、日本医科大学付属病院のドクターにまで轟いていたのだった……

 それはともかくとして……回復まで二週間以上はかかる筈だ。暫くは魔法使用は御法度だ……

 もし今、デュランダルに怪物の討伐依頼をアサインされたらと思うとぞっとする。唯を庇いながら果たして怪物と戦えるのか!? スライムに負けた直後ということもあって、自分にはその自信が全く無い……

 それに元気の無い妹の顔など決して見たくはない。

 ……つまりこいつの出番という訳だ……直人は心の中でそう呟くと、唯の湯呑みにだけ怪しげな白い粉を注いだ……


 普段は唯が身に着ける牛柄のエプロンを羽織った直人が、緑茶を淹れてソファーに戻って来た。エプロンのサイズが少し小さいがこの際仕方がない……というか普段妹が身に着けているエプロンを自分が着ていると思うと……もうそれだけでゾクゾクと興奮してくる変態の直人がそこにいた。

 彼の淹れたお茶の銘柄はいつもの安渓鉄観音。

 その安渓鉄観音を淹れた唯の湯呑みにだけ、医者から渡されていた特注の薬が仕込んである……その薬は勇者のことを気遣って無味無臭ではあるが、ヴリルの回復を早める効果とヒーリング効果の効能があるのだ。

 爽やかな花の香りが戦闘で疲れ果てた兄妹を優しく包み込む。

 兄妹二人だけで水入らずでくつろぐ……ゆっくりとお茶を楽しむ……そんな当たり前だったことが、何だが本当に久方振りのことの様に感じられた。

 ……な~~んて、いい話の筈だったのだが、唯は先程から直人の淹れた緑茶を繁々と見つめながら一向に口を付けなかった。

「どうした唯? 飲まないのか? これ、結構いけるぞ!」

「……兄さん」

「んっ?」

「……これHな薬とか入って無いわよね???」

「えっ!?」

「惚れ薬とか、睡眠薬とか……飲むと一発で意識が飛ぶ薬のことよっ!」

「はっ……入っている訳ないだろっ!」

「俺が入れていたのは、医者から渡されていたれっきとした薬だ! 何でもヴリルの回復を早める効能があるらしいぞ……」

 直人は虚を突かれ、何故だか……多分日頃の行いがたたって……しどろもどろになっていた……

「ふ~~~ん? どうだか???」

 その説明を受けても唯は一向にお茶に口を付けなかった。

「だっ……だいたい……実の妹にそんな鬼畜な薬を使う変態兄貴がいたら、この目で見てみたいぞ!」

 その言葉に唯はジト――――ッとした疑いに満ちた目つきでその実の兄を見つめていた。

 ……成程! その手があったか!?

 直人は表面上はポーカーフェイスを貫きながらも、今更ながら惚れ薬の買い置きが無いことを若干……ではなく本当はかなり後悔していた……

「疑うのなら俺が一口飲む」

 そう言うと直人は唯の目の前で彼女のお気に入りの湯呑みに口を付けた。

「あっ!」

 ――彼女のお気に入りの湯呑み。

 その湯呑みは兄妹の両親が亡くなった後で、直人が家計を支える為に働き始めた頃、彼が初めての給料で唯にプレゼントした物だった。

「ほら! これで何でもないって分かったろ!」

 直人はそう言うと唯に湯呑みを差し出した。

「……………………」

「わ……分ったわ……よ……」

 唯は繁々と湯呑みを見つめると、赤い顔で下を向き、彼女のお気に入りとなった湯呑みにゆっくりと口を付けた。

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