第八話「終章 一太刀」

 気付いた時には手遅れだった――――直人は怪物の腕に左足首を掴まれていたのである。その腕はまるで巨木の様に太く長かった。

 瓦礫の奥深くで、怪物の紅い目がギラリと発光した……

「足が、足があああぁ――――――――――――――――」

 怪物の力は想像を遥かに超えていた……万力の様な力で、左足首が締め上げられていく。

 ……足が千切れる……

 バドラは直人の左足首を掴んだまま瓦礫の山を片腕で払いのけ、膝立ちでゆっくりと半身を起こして行った。バドラの顔面は直人の直上にあり、深紅の目は怪しげな光を帯びている……

 怪物の口から涎が絶え間なく零れ、直人の顔面にドロドロと流れ落ちて行った。

「うわああああああ――――――――――!」

 直人は絶叫した。

 喰われてたまるか!

 ……殺るか、殺られるかだ。

「アヴァロン!」

 直人はアヴァロンの剣にヴリルを注ぎ込んだ――長剣が青白く発光し、剣先からオーラが迸る――剣はクリスタルの如き輝きを湛え、逆に直人の顔色はますます蒼白くなって行く――

 直人は怪物の腕に狙いを定め、長剣を振り抜こうとした。

 危険を察したのだろうか? バドラは足首を掴んだ状態で、直人を左右に振り回した……

 その時、足首からバキイッ! という鈍い音が響いた。堪えようのない痛みが光速で全身を駆け巡る。

 直人は歯を食いしばり、アヴァロンの剣を横一文字に振り抜いた――

 剣が当たる瞬間、バドラは足首を離し、勢いを付けて直人を放り投げた……直人は凄まじいスピードで後方にすっ飛ばされていた……彼が飛んでいる先には、倒壊し瓦礫化したビルが待ち構えている。直人はバリア魔法を起動しようとした……

 無理だ! 今からでは間に合わない!!

 ”バシィィィィィィィィィィィィ”

 激しい衝突音と共に、直人は何かにぶつかって膝を付いた。しかし背中に痛みは無かった。左足首を押さえて振りむくと、真紅のバリアーが倒壊したビルの前に立ち塞がっていた。

「唯!」

直人は叫んでいた。

「NAバリア…………」

 唯はふらつく足取りで、バリア魔法を起動していた……直人の横一〇メートルの位置に立っている。直人の無事を確認すると、唯はNAバリアーの生成を解除しそのまま倒れ込んだ。

 直人はジャンプ魔法を起動して、唯の前方に着地した。

「唯、起きてくれ!」

直人は声を張り上げて、妹の身体を揺さぶった……

 バドラは兄妹の生存を確認するや、ゆっくりとした足取りで、彼等の元へ歩を進めていた……体中に鉄骨やコンクリートの破片が突き刺さっている。腹からは血が流れ出ていた……

「怪物が来る! 目を覚ませ唯!!」

「約束しただろう……二人で家に帰るんだ! お前が必要だ! 目を覚ましてくれ唯!」

 必死の形相の直人と、虚ろな唯の目が交わった……

「そう……そうね」

「……まだ私達は死ねない」

 直人は一瞬怪物の存在を忘れ、思いっきり唯を抱きしめた。

 唯の目から大粒の涙が零れた……

「ありがとう……今の言葉、忘れない……」


 兄妹は揃ってバドラを睨みつけた。直人は唯の耳元で何事かを囁いた。唯は泣き腫らした目で小さくうなずいた……

 直人は右足に力を込めて立ち上がり、左足を地面に軽く添えた。軽い衝撃で左足に激痛が走る……足首が折れているのだ。

 直人も唯もヒール系の魔法は苦手だった……しかし、回復薬はこれまでの激しい戦闘で、この街のどこかに落としていた。

 まともに戦えてあと一撃だ……もう俺達に余力は無い……

 直人はそれと悟られない様に右足に重心をかけ、さも切りかかるようにアヴァロンの剣を敵に向けて構えた……それが合図だった。

 唯の全身が真紅のオーラで包まれて行った――

 バドラが大口から火炎を吐き出す。

 同時に、唯が全身の力を振り絞り叫んだ――

「サイコキネシス!!」

 兄妹の周辺にあった大量の瓦礫が一斉に浮かび上がった……

 瓦礫の山がバドラの火炎攻撃をディフェンスする。

 怪物の腹から鮮血が水芸の様に迸った。

「当たれ―――――――――――――!!」

 唯が絶叫した。

 浮遊させた鋭利な数百の瓦礫が、怪物に再び襲い掛かる。

 ……しかし、二度同じ攻撃は通じなかった……予期していたのか!? バドラは一瞬早くバリア魔法を起動していたのだ……

 唯のサイコキネシスと、バドラのバリア魔法が激突した!

 大気がビリビリと震え軋んでいる……唯の真紅のエナジーがバリアを伝い拡散して行く……

 ベリイイイッ! 唯の激突させた巨石が、ついにバドラのバリア魔法を粉砕した。

 それを合図に瓦礫の山が、バドラ目掛けて飛び掛かって行く。

 唯はそれを見ると膝から崩れ落ち、地面に倒れ込んだ。

 ……頼んだわよ……兄さん。


 直人はバドラに向けて飛ばされた瓦礫の最後尾にいた。

 平たいコンクリートの陰に身を隠し、指をフックしてしがみ付いている……

 鋭利なコンクリートの破片が、バドラ目掛けて急速接近していた。

 バドラは造作もないといった調子で、そのコンクリートを鉤爪で引き裂こうとした……

 その時、直人がジャンプ魔法を起動して上空を舞った。

 バドラが鉤爪を振り下ろし、コンクリートを粉々に打ち砕く。

 直人の身体が重力によって地面に引かれて行く……

 直人の目には、振り下ろされたバドラの右腕が映っていた。

「アヴァロン!!」

 直人は自身に残された最後のヴリルを、長剣に注ぎ込んだ。

「氷属性――――氷剣、アルマス!」

 アヴァロンの剣が急速に冷気を帯びて行く……

 今まで動じる素振りを見せなかった怪物の表情が、初めて歪んだかに見えた。

 直人は重力と全体重を乗せて、上段からアヴァロンの剣を振り下ろした……

 スパッ――――――――

「アガアアアアアアァァァァァァ――――――――――――――――――――――」

 再び怪物の咆哮!

 直人の振り下ろした氷剣が、バドラの二本の鉤爪を寸断したのだ。

 人間で言えば、薬指と小指に当たる部位だった。

 バドラは右腕を押さえて雄叫びを上げた……切断された指の付け根と、鉄骨の食い込んだ土手っ腹から、鮮やかな赤色の鮮血が止めどもなく流れた……

 直人は右足で地面に着地すると、左足を引きずりながらバドラから距離を取ろうとした。

 ……身体が……身体中が異様に重い……もう俺の中にはカスの様な力さえ残っていない……直人は確信した。

 そのまま膝から地面へと崩れ落ちて行く。

 バドラから逃げようとした直人は、そこで足を止めていた……

 足が一歩も前に動かないのだ……もう……どうすることもできなかった。涙が頬を伝う……

 ……俺は化け物に喰われて死ぬのか!? 何て最後だ……直人はそう思った。

 敵の方をゆっくりと振り向く。

 身体は動かなくても、せいぜい敵を睨みつけて死にたい……直人はバドラを視界に捉えた。

 ――そこで直人は、何とも奇妙な光景を目にすることになったのだ。


 直人が切断したバドラの巨大な鉤爪が、徐々に透明化して行った――

 輪郭部分から消失して行った鉤爪は、気化する様に蒸発し、最後には見えなくなっていた。

「何が……何が起きているんだ!?」

 直人は当惑し、敵を凝視した。

 バドラが全身から、鮮やかなヴァーミリオンの光を発散した……

 バドラがよろめき、後方に数歩退いた。

 すると、今度はバドラの全身が徐々に半透明化して行き、消失したかと思うと数秒後出現する奇妙な現象を繰り返した……

 それはエネルギーを使い果たした電球が、最後に明滅を繰り返す動作に似ていた……

 直人は只々驚愕の思いで、その不可思議な現象を凝視する他なかった。

 バドラが更に、後方へと大きく退いて行く……そして……

 ――バドラは直人の視界から完全に消失した。

 直人はその光景を見て、手品師に化かされた様に感じていた……

 目を凝らし、敵を視界に捕らえようとした直人だったが、遂に敵を補足することはできなかった。

 直人は近くをハエの様に飛ぶドローンに向けて、最後の力を振り絞って口を開いた。

「終わったぞ……救急車を呼んでくれ……」


 薄れゆく意識の中で、幸せだった日々の記憶の断片が走馬灯の様に蘇って行く。

 ……あの時は自分が幸せだなんて、これっぽちも気付かなかった。

 唯がいて、気の置けない友人がいて、授業を受けて、たまに下らない冗談を言う平穏な日々。

 そう、悪夢としか言いようがない三ケ月前のあの日まで、俺達は幸せな日常の中にいたのだ!

 ……直人は更に考えようとした……しかしそこから先に、彼の思考は続かなかった。

 直人はヴリル欠乏症と左足の激痛から、そこで意識を失った……

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