第三話「開戦」

 バドラは兄妹を一瞥するなり、首をもたげ大口を開け雄叫びを上げた――

 怪物の咆哮が全身を貫いて行く。直人は落雷を受けた様に全身が固まり鳥肌が立っていた……心の芯まで恐怖に支配されていたのだ……

 バドラの全世界を呪い殺す様な雄叫びが、深夜のセンター街を覆って行く……

 怪物の巨大な眼光がギラリと光る……視線は無論、獲物である兄妹を捉えていた。

 バドラの巨木の如き首が振り下ろされる――同時に、大口から紅蓮の炎が吐き出された――

 視界を塞ぐ炎の洪水が直上から兄妹に降り注ぐ……

「N・Aバリアー!!」

 唯が両手を上に上げ防御魔法を起動した。

 ――魔法は無詠唱ですぐさま起動される……魔法士の意思、イメージが、素粒子に影響を与える現象……それがこの世界での魔法だ。

 半透明の紅い障壁が、兄妹の上空五メートルの位置に展開される。

 バドラの灼熱の炎が、唯の展開したN・Aバリアと激突する。

 耳を突く摩擦音が深夜のセンター街に響き渡る。

 魔法を起動した唯の身体が、真紅のオーラに包まれて行く……魔法起動後、魔法士の身体は本人を象徴する色彩のオーラに包まれるのだ。

 唯のフランス人形を思わせる整った顔立ちが苦痛に歪んで行く……

「……バリアがもたない」

 唯の身体から真紅のオーラが激しく立ち昇る……生命エネルギーたるヴリルを激しく消費しているのだ……一三歳の少女には酷すぎる仕事だ。

 怪物であるバドラの魔法力は、唯の力を大きく凌駕していたのだ。


「一時撤退する……」

 直人はバリアの生成に集中する唯を、後ろからそっとお姫様抱っこした。

 腕の中にいる唯の顔が紅く染め上げられて行く。

「仕方……ないわね」

「唯、大丈夫か? 顔が完熟トマトみたいに真っ赤だぞ」

 そう言うと、直人は唯に顔を近づけ、至近距離から妹の顔を覗き込んだ。

 すると唯の顔は更に真っ赤っかに染まり、直人からぷいっと顔を背けた。

 その時だった……

 ベリッ!!

 兄妹の直上で、バリアに亀裂が入る鈍い音が聞こえた……

「もう、色々限界! バリアが壊れる!」

 唯の瞳孔が大きく見開かれた。

 バリアの亀裂から、ジェット噴射の如き灼熱の炎が兄妹へと降り注ぐ。

 直人は唯を抱きながら、大きく後方へジャンプした。妹の白くか細い腕が兄の首に絡み付いて行く。普段はおてんばな唯が、この時ばかりは恐怖に震えていた。

「兄妹で丸焼きは御免だ!」

 直人は大きくジャンプを繰り返し、後方へと飛び退いた。

 その時――直人の中で嫌な予感が大きく膨らんで行った……撤退して体制を立て直さなければ、俺達は確実に殺られる……そう、ドラゴンと戦い磔刑にされ、全身に暴力を浴びて死んだ勇者の様に……


 直人はジャンプと同時に《飛翔魔法》を起動させた――直人の全身が紺碧のオーラに包まれて行く。

 重力から解放された兄妹の身体が、渋谷センター街の灰色の地面から離れて行く――魔法で空中を飛んでいるのだ……既に兄妹の身体は、地上から一〇メートル離れた場所にあった。

「一端距離を取る!」

 直人は飛翔魔法を加速させた。

 戦術的撤退――直人は敵に背を向けて、逃げることに専念した……勇者の敵前逃亡は死刑だが、戦術的撤退は認められているのだ……

 撤退する二人を、ドローンが側面から執拗に撮影していた……ふと、酒場で映像を見る酔っ払いの高笑いする姿が目に浮かんだ。

 逃げる勇者を巨躯きょくのドラゴンが追う。

 大口から放たれる紅蓮の炎――地獄の業火が兄妹を灰に変えるべく追跡した……

 背中が……背中が焼ける!

 腕の中の小柄な妹を背中を丸めて必死に守る。

「うわあああああああああああぁぁぁぁ―――――――――――――――――――」

 直人は無意識の内に叫んでいた……唯は、妹の唯だけは命に替えても守らなければならないのだ……


 戦術的撤退を続ける兄妹の前に、東急ハンズ渋谷店の看板が飛び込んで来た。

 高さ、距離共に丁度良い……ともかくあの場所を目指す。

 飛翔魔法で無人の井の頭通りを全力で飛ぶ――今兄妹の身体は高度二〇メートルの上空にあった……鳥の目で見る渋谷の街……眼下のネオンサインが、宝石の様にキラキラと瞬いている。しかしこの状況……妹と夜空の散歩を楽しむ余地など微塵も無い……バドラの火炎攻撃が背後に迫っているのだ……今の兄妹は正にケツに火が付いた状態にあるのだった……

 歯を食いしばり、飛翔速度を加速させる……直人の身体から紺碧のオーラが激しく立ち昇った。息が切れる……直人は東急ハンズ渋谷店の屋上に何とか着地した。

 首を振り周囲を確認する。屋上は広く、所どころにエアコンの室外機が置かれているが、動けるだけの十分なスペースがあった。直人は腕の中の唯をそっと屋上に降ろした。

 遠隔操作されたドローンがシャッターチャンスを逃すまいと、兄妹の周りで忙しく飛び交っている……その光景を見て直人は思わず舌打ちした。

 バドラは兄妹と同様に、井の頭通りの上空二〇メートルの位置に浮遊していた。怪物の巨躯がストリートにどす黒い影を落としている。

 敵までの距離はおよそ三〇〇メートル。勇者と怪物が互いに距離を取り、真夜中の渋谷で睨み合っていた。

 直人は唯にそっと目配せをした。

 唯はぴょんとジャンプをすると、ビルの外壁の突端に仁王立ちした。

「さっきは戦術的撤退をしただけよ……いい気にならないで欲しいわね」

 唯は美しい赤髪をファサッと撫で上げると、いつもの勝気な表情に戻って言った。

「勝負よドラゴン。一発で終わらせてあげるわ!」

 そう言うと唯は、目を剝いて敵を睨みつけた。

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