第175話、ナジェという男
ナジェ・ガンティエは、第二皇子である。
ガンティエ皇帝、第二夫人の産んだ子供であり、兄カルド、妹レムシーとは母親が違う。
他にも第三夫人の子供――ナジェにとっては弟が二人いたが、夫人もろとも、すでにこの世にいない。
一説には、第一、第二夫人が第三夫人を嫌っていたから暗殺した、などという話があるし、まだ幼い第四皇子は、カルドとレムシーに殺された、などというきな臭い噂があった。
幼い頃から、兄のいうことをよく聞く弟として振る舞ったおかげか、ナジェは宮廷内の陰謀に巻き込まれることなく、自堕落な生活を送っていた。
日頃から、兄を立て、妹の味方をしていたから、『敵』と判断されなかったのだろう。元々、野心がなく、王族であることを利用して、適当に贅沢できればそれ以上望まなかった。
『皇帝? そんなのはカルド兄さん以外ありえないっしょ。万が一の時は、レムシーが皇帝になってよ』
帝位を望まず、自堕落なナジェに期待する者はいなかった。好き勝手やっているダメ皇子――それがナジェであり、そのあまりに王族として奔放過ぎる言動には、兄カルドからたしなめられることもあった。
ともあれ、兄弟仲は悪くなく、権力に興味ないように振る舞ってきたナジェだが、帝国は彼にそれを許しておける状況ではなくなっていた。
ヴァンデ王国への進軍に向けて準備中に西方軍が壊滅。東のハルマー軍が、積年の恨みを晴らすべく攻めてきた。
妹レムシーのわがままに振り回された結果、帝国軍は戦力を消耗し、ハルマー一国の軍でさえ、抑えられるかわからない。
戦争に行くつもりはないが、戦争に巻き込まれるかもしれない――その考えで備えていたナジェは、想定どおり、戦場で戦うことになった。
「正直、逃げてもよかったんだけどねぇ……」
ナジェの呟きは、彼を警護する近衛騎士たちの耳に届き、そして不満そうな表情を浮かべさせた。
「でもカルド兄さんが亡くなって、親父殿はパウペル要塞に引きこもりだろう? じゃあ誰が戦うのって話になったら、オレしかないって感じ?」
ナジェは、近衛たち以上に不満顔だった。
「まったく腹立たしい限りじゃないか。親父殿は何をやってるの?」
「皇帝陛下から、各地の部隊は、現在地での死守をお命じになられているようです」
「あれ、新しい命令が出た?」
ナジェは首を捻った。現在地の死守命令は、初耳だったからだ。
「しかし何? 現状維持で、その場を死守? 部隊を集めて、敵に当たるとかじゃなく? それって、各個撃破されるだけじゃない?」
「……そういう命令なのです。皇帝陛下の」
各個撃破されるのではないか、というナジェの指摘について、近衛たちも思っていたのだろう。しかし、皇帝の命令に対して文句を言うわけにもいかず、言葉を濁すのだ。
「親父殿、大丈夫? 兄貴がくたばって、気が狂っていたりしない?」
「……」
自由なナジェの言葉に対して、近衛たちは返事に困る。その答えは、皇帝批判にも繋がりかねない。
「しかし、何だな。現状維持ってことは、オレらもここから動くことができないってことか?」
「そうなりますな」
近衛隊長が頷いた。
「このタルカル防壁を、ハルマー軍から死守しなくてはなりますまい」
「嫌だなぁ、それ、オレら死ぬってことじゃん」
態勢を立て直して、ハルマー軍が進撃してきたら、援軍のない帝国軍は平原を失うことになるだろう。
死守命令ということは、最後の一兵まで留まって戦うということだから、全滅確定である。
「こりゃ、本当にレムシーが皇帝になっちゃう?」
ナジェがここで死ねば、皇帝の後継は、皇女ただ一人である。
「それが、パウペル要塞では、あまりよろしくない噂が出回っているようです」
近衛騎士の報告に、ナジェは耳を傾ける。
兄カルドの死の前後から、皇帝は部屋に愛人を連れ込み、妹レムシーもまた兵たちを誘って姦淫に耽っているという。
「え、何、オレより楽しそうなことしているの?」
この発言に、近衛騎士たちは何とも言えない顔になった。近衛騎士の一人が咳払いした。
「皇帝陛下はともかく、妹姫殿下に悪影響を与えたのは、ナジェ殿下の普段の行いのせいでは?」
「オレのせい? ……かーっ! これは、引きこもり組に喝を入れてやらねばなるまいな」
ナジェは真面目な顔になった。
「ただ今をもって、第四騎兵連隊は解散だ。帝国軍から部隊消滅、兵隊は失業だ」
「はい?」
「殿下!?」
近衛たちが、突然のことに狼狽える。ナジェは構わず続けた。
「同時に、元第四騎兵連隊は、オレのポケットマネーで雇われた傭兵団となる。……給料のことなら心配しなくていいぞ」
「どういうことです、殿下?」
「騎士ではなく、傭兵……」
状況に追いつけない近衛騎士たちである。ナジェは溜息をついた。
「オレは、お前たちを前線と心中させるつもりはないんでね。帝国軍であるなら、死守命令は絶対だが、傭兵団は皇帝の命令ではなく、雇い主の命令が最優先になる。……意味はわかるな?」
「自由行動が許されるというわけですか」
近衛隊長の言葉に、ナジェはニヤリとした。
「無策で潰されるより、好き勝手暴れてやろうじゃないか」
「!」
「とりあえず、防壁を離れるぞ。城攻め気分の蛮族どものケツを掘りに行くぞ」
ナジェは部下たちに告げた。
・ ・ ・
ヴァンデ王国は、今日も平和だ。
「ねえ、アレス、聞いてる?」
リルカルムの声に、俺は頷く。
「もちろん。皇帝陛下とワガママお姫様は、部下たちから呆れられているんだろう?」
我らが災厄の魔女が送り込んだ夢魔エリルによって。魔法によって帝国中枢の様子を見ることができるのだが……まあ、何というか、とんでもないことになってるよな。
帝国が大変な状況にも関わらず、政務を投げ出し、皇帝は個人の快楽を貪っているというね。非常時に呆けている王族など、民からしたら、とんでもないクズであろう。
「……それで、ナジェって皇子が割とまともに動いて、ハルマーと戦っているって話よ」
リルカルムは腕を組んだ。
「こいつが頑張っちゃうと、帝国が立て直されてしまうかもしれないわ。……こいつも呪う? それとも始末する?」
「……しばらく放置でいい」
聞いた話では、放蕩息子らしいナジェだが、非常時には中々上手く立ち回っているようだ。
「いいの?」
「仮に帝国が、ハルマーを撃退してしまっても構わない」
皇帝から、軍の上級指揮官たちの心が離れつつある。彼が何もしなくて、第二皇子がもしハルマーとの戦争を終息させたとなれば、軍はナジェに流れるだろう。……上手くすれば、帝国を内乱に引きずり込めるかもしれない。
「余所の国で分裂工作していた帝国が、まさか自分の国で内部分裂させられたら、皇帝陛下は、果たしてどんな気持ちになるんだろうな?」
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