第174話、後方の父、前線の息子


 ラウダ・デラニ・ガンティエ皇帝は、もうしばらく自室に篭もっていた。


 食事も着替えも、従者がやる。だから生きていく分には、皇帝自身は何もしなくてもよかった。

 もちろん、ただ部屋にいて、何もしないなどということはない。それでは退屈過ぎて、かえって動くものだ。


 しかし、今、ラウダ・ガンティエがやっていることと言えば、絶世の美女と体を重ねることのみだった。


 元々好色家であり、若い頃はハーレムを作っていたが、ここ数年は、その手の交渉の回数もめっきり減って大人しくなっていた。

 だが、ここにきて、いつの間にかいたエリルという美女に、ガンティエは骨抜きにされたのだ。


 彼女は、ガンティエの思い描く美女そのものだった。長くたっぷりある金髪に、豊満な胸、若く、スタイルのよい完璧な女性である。かつて愛し、先立たれた王妃の面影を感じ、肉を、快楽を貪った。


 全てを忘れられた。国の不幸も、煩わしい仕事も、何もかも。エリルはガンティエの欲望を全て受け止め、肯定した。それが心地よかったのだ。


 何より、自分が若かった頃のように、充実していた。活力が漲り、若返った気分だった。歳を重ねて、肥えてきた体も引き締まってきたようだ。一日中、ベッドやその回りで運動をしているおかげかもしれない。


 疲れを感じることは少ない。疲れを感じても、心地よい疲労で、そのまま眠る。そして夢を見る。やはり愛しい人と体を重ねたり、全てが許された世界で微睡んだり。……愛する人によく似た娘のレムシーが、性の捌け口として蹂躙されるさまを見たり。


『あなたは、愛する人がグチャグチャに泣くところを見るのが好きなのよね……』


 エリルなのか、亡き妻なのかはわからない声が、夢見るガンティエの耳に囁く。


『ワタシによく似た愛人たちが、ああやって潰れていくのを見て興奮している変態さん。本当は自分の娘も潰したいのでしょう?』


 フフフ、と厭な笑いが耳にこびりつく。


『ここでは何をしても許されるのよ。あなたは皇帝。誰もあなたに逆らえない。非難しない。……あなたの世界。あなたが世界』


 やれ、本能のままに。自分の娘を、自分の思うままに――


『そう、いいわよ。あなたはとても醜い。醜い獣……。でもいいのよ。その醜さも肯定される。ここは、そんな世界なのだから。大丈夫、あなたは最高よ。とても……とてもね』


 そして夢なのか現実なのかの境さえ、見失いそうになる。ガンティエは欲望のまま、体を動かした。したいことに何の躊躇いもない。


 誰も非難しない。あのうるさい宗教の声もない。全て滅ぼしたから。聞こえるわけがない。自由だ。自由なのだ――!



  ・  ・  ・



 そんな欲に溺れた皇帝の姿を、嘲る目がある。サキュバスのエリルは、夢魔に取り憑かれた一人の男が、狂ったように行為に没頭する様を見ていた。


 サキュバスに精を搾り取られ、皇帝の体は痩せていた。気持ちは滾っているが、その顔も正常のものとは言い難い。


 ここ数日、彼を見ていない臣下たちも、皇帝の今の姿、顔を見れば、その変化に気づくだろう。勘がよい者は、何かに取り憑かれたのではと想像することができるくらいの変わり様である。


「でも、まだまだ愉しまないとねぇ……。ご主人様から殺してはいけないって言われているし」


 エリルは、舐めるように皇帝をあらゆる角度から見る。


「まだ、元気よね……? そのうちどちらが現実で、夢なのか、わからなくなるかもだけれど」


 愉しみましョウ、皇帝陛下……!



  ・  ・  ・



 帝国東方戦線――


 第二皇子ナジェ・ガンティエは、荒涼たる平原を、タルカル防壁から見下ろしていた。


 長身の男だ。ただひょっろっていて、間違っても武人のようには見えない。実際、周りはハルマー軍との戦いに備えて、武装していたが、ナジェは腰に剣を一本下げている以外、防具すらしていなかった。


「殿下、さすがに防具は身につけたほうが……」

「あ? いらんよ。重いし」


 ナジェは、配下の騎士の進言に手を振った。


「オレみたいなガリガリが、大層な鎧をつけても動けなくなるだけだ。そんなみっともないとこ、見せられないでしょうが」

「そう仰られるのなら――」


 皇子専属の近衛の女騎士が口を開いた。


「普段から、もう少しお鍛えになられたら如何ですか?」

「しょうがないじゃん。食べても、太らないんだもん。……あ、怒った?」

「怒ってません!」


 女騎士が目を閉じると、ナジェはにっこり微笑んだ。……彼女が自身の体型を保つことを気にしていることを知っている。だが、ナジェは、彼女にはもう少し健康的な体型であることを望んでいる。


 ――無理して、痩せようなんてするもんじゃないよ。


 それはそれとして。


「オレだって、敵陣突撃する時は、ちゃんと防具はするからさ。敵がいない時くらい、見逃してよ」

「……あれは肝が冷えました」


 近衛の男騎士の一人が言った。


「よもや、殿下自ら、敵中突撃を敢行するとは思っていませなんだ」

「えー、だって皆『突撃するの? 嘘でしょ?』って顔して動かないからさぁ。ここは言い出しっぺが手本を見せないとね」


 タルカル平原での戦い。形勢不利となった戦況の中、このままハルマー軍に押し切られると思いきや、予備兵力として後方に待機していた第四騎兵連隊が、突然、戦線を横断し、追撃モードになりかけていたハルマー軍に正面から突撃を行った。

 結果、ばらけていたハルマー軍の懐に易々と潜り込み、総大将のいる本陣へと、皇子と第四騎兵連隊は迫ったのである。


 これに慌てたハルマー軍は、追撃中止を命じ、即時、集結して懐に入り込んだ敵の殲滅へと軍を動かした。


 だが、第四騎兵連隊は、本陣まであと一歩と迫りながら、突如方向を変えて、戦場を離脱した。


 肩透かしを食らったハルマー軍だが、その間に敗走した帝国軍は防壁にたどり着いてしまい、追撃が困難となってしまった。前線が戻ってくる間、第四騎兵連隊は騎馬である速度を活かして逃走したため、追跡もままならず、ハルマー軍は一時撤退を選択したのだった。


 皇子の機転と行動により、タルカル平原の帝国軍は壊滅を免れ、防壁での防衛戦でもうひと合戦が可能となっていた。


「まあ、焼け石に水なんだけどな」


 ナジェは、遠く地平線に布陣するハルマー軍を睨む。


「もっと根本的な手を打たないと、ここも長くは保たないよ」


 帝国の総指揮官である皇帝が、援軍を送るとか、勝つための手段を講じない限りは。

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