第173話、帝国内の不穏な空気
この国はどうなってしまうのだろうか?
ガンティエ帝国の大将軍ジャガナーは、憂鬱だった。
皇帝と皇女がパウペル要塞に籠もって、幾何かの時が流れた。現在帝国は、東のハルマー、南のハルカナからの攻撃に晒されていた。
特に東方戦線は、防衛戦にて敗戦。第一皇子が捕虜となり、その後処刑された。前線は下がり、そして戦線は一時崩壊した。
ただ、その時、予備兵力だった第四騎兵連隊が、ハルマー軍の中枢へ果敢な突撃を敢行。敵総大将の喉元まで迫ったことで、ハルマー軍を退却に追いやった。
あのボンクラと悪評の立つ第二皇子、ナジェ・ガンティエが直接指揮を採り、敵を撃退したと報告があり、東方戦線は、何とか踏みとどまったようであった。
しかし、報告によれば、東方では多くの帝国民が奴隷として連れていかれたというのもあり、ジャガナーとしても手放しで喜べるものではなかった。――東の蛮族どもめ。
問題は東方戦線だけではない。
戦力不足が見えている現状、東方戦線に加えて南方戦線にも増援が必要となっている。的確かつ迅速な判断、行動が求められている。
にも関わらず、肝心のガンティエ皇帝が、無能を晒していることが、事態を悪化させていた。
「……大丈夫ですか、大将軍閣下」
副官が不安そうな顔で、様子を窺っている。ジャガナーの表情は、非常に苦り切っている。ここのところ、胃痛が酷いのだ。
「わしのことより、帝国だ」
「……」
副官や、大将軍の直属の部下たちの表情は暗い。作戦室で、帝国防衛の対策をいくら練ろうとも、実行されなければ意味がない。……意味がないのだ。
「皇帝陛下は、まだお休みなのですか?」
沈黙に耐えかねたか、連隊長が一人が言った。
ガンティエ皇帝は、今や大半の時間を部屋で過ごしている。
第一皇子の死を伝えたら、そうなった。自身が目をかけていた息子の死は、さすがに親としてショックを隠せなかった。
皇帝も人の子なのだ、とジャガナーらが同情したのは、その時だけだった。何故なら、皇帝は帝国の指導者であり、身内の死の感傷に浸っている猶予などないのである。
帝国は他国の侵略を受けており、一刻も早く対策を立て、敵を撃退しなくてはならない。
ここで普通の王ならば、『皇子の仇討ちだ!』と激怒し、自ら軍を率いるとか、あるいは大軍を集めて反撃の命令を発するものだろう。
だが、ガンティエ皇帝は、そのどちらもしなかった。部屋に引きこもり、対策に用いるべき時間を浪費した。
息子の死を悲しみ、その想像を絶する心の痛みから立ち直るため、いや、癒すため、若い女をベッドに引き入れて、励んでいるのだ。
「……」
「……」
「……」
作戦室の空気が、より重くなる。思い出すだけで、上級指揮官らの表情は曇る。
「せめて、大将軍閣下に、一言命令してくれれば済むものを……」
「言うな」
ジャガナーは苛立ちを隠せなかった。
ここのところ、皇帝とほとんど面会できていない。心の傷を癒すためと称して、性的な行為に没頭しているとか、軍からすれば言語道断であるが、それでもガンティエは皇帝である。
皇帝が肉欲に逃げるなら、せめて軍の指揮権を頂ければとジャガナーは申し上げたが、皇帝の答えは。
『余が最善の策を考え出す。しばし待て』
そう言って、部屋に篭もっている。
お前は考えなくていいんだよ、部下に任せろよ――パウペル要塞にいる上級指揮官たちは、心の中で叫んだことだろう。
女に逃げるのに忙しいなら、部下に全て任せておけばいいのに、中途半端に自分がやるなどと言って、結局部下たちが行動できない。
自分が帝国で一番偉いものだから、自分以上に優れた策を考えられる者はこの国にはいない――傲慢、いや自分勝手過ぎる思考に囚われて、正常な判断ができなくなっているかもしれない。
権力があるものだから、何をやっても許されると、都合のいい思考をしているのだろう。部下側からしたら、非常に都合の悪いことだが。
――やはり、居城を転々とし、帝都を破壊され、息子が死んだことが重なり、おかしくなられているのかもしれない……。
もう終わりかもしれない――口には出さないものの、帝国軍の上級指揮官たちは思い始めている。
「……我々は、いつまでこの要塞にいるのか。帝国の危機にも関わらず、部下たちも暇をもてあましておるわ」
上級指揮官たちが、愚痴り出した。ジャガナー同様、現状に不満を抱えている者だらけである。
「皇帝は、エリルとかいう娼婦にお熱なのだ」
「……よくもまあ、朝から晩までお盛んなことだ」
「何でも、部屋からとても情けない声が漏れ聞こえてくると聞いたぞ!」
「しー! お前、陛下の耳に入ってみろ。殺されるぞ」
次々と漏れる言葉に、副官は気まずげにジャガナーを見た。大将軍が怒り出すのではないか、と心配したが、胃の痛みに耐えているジャガナーは、口を閉ざしたままだった。
「――気は進まぬが、レムシー皇女に皇帝の尻を叩いてもらうか?」
「え?」
「違う違う、言葉のあやだ。皇帝陛下に軍への指示を早く出してもらうよう、説得してもらうのだ」
「無理だ無理。貴様は知らんのか? レムシー皇女も、部屋に男を引き入れて、近衛共々乱れた生活を送っておられるらしいぞ」
「……そういえば、今朝、うちの副官が妙なことを言っていたぞ。昨晩、要塞の兵舎に奴隷を引き入れて『息抜き』が行われていたらしいのだが、その奴隷が、レムシー皇女によく似ていたとか何とか――」
ええぇ――指揮官たちはドン引きである。
「いやいや、さすがに他人の空似だろう?」
「そうそう、本人のわけがない。さすがに皇帝陛下も黙ってはいまいよ。あっはっは」
笑い話ということで、彼らは済ませた。実際、あり得ない話だ。見間違いか、そっくりさんを見つけたのでお楽しみに使ったとか、ろくでもない理由なのだろうと、皆は適当に片づけた。……ワガママ皇女に不満を抱いている者は少なくない。関わりたくないのだ。
ジャガナーは何も言わなかった。上級指揮官たちも、要塞にいる誰も彼もが不満を抱えて、その力を持て余しているのだ。
皇帝が、ただ指示を出さないというだけで。
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