朱元璋——全人類の中で最も成り上がった男

たけや屋

第1話

 世界史上で『最も成り上がった人物』ってのはたぶんこの人。

 それは、最底辺の庶民からみん王朝の初代皇帝になった・しゅ元璋げんしょうです。


 朱元璋——本名・しゅ重八じゅうはちは生まれから波乱の人生でした。

 朱一族は【貧乏】という言葉では表現できないほど酷い生活を送っていました。夜逃げに次ぐ夜逃げで安定した生活など望むべくもない、当時の中華の最下層民。そんな逃亡生活の中で生まれたのが後の皇帝になる男です。


 重八という名前は、一族の中で8番目の男児を意味します。

 重八の父親のしゅ五四ごしは、誕生時の両親の年齢を足した数字がそのまま名前になったものです。その兄の名は朱五一ごいち


 このような命名方法は、当時の中国人庶民ではよくあることでした。上記のような【一族内での産まれた順番】や【親の年齢を足した数】をそのまま名前にするケースが多かったのです。


 孔明こうめい玄徳げんとくなんかの格式高い名前ってのは、上流階級が付けるものでした。学のない庶民は深い意味を込めた名前なんてのはつけられなかったのです。


 朱重八が17歳のとき、あたり一帯が大飢饉だいききんに見舞われます。極貧農家の朱一家に蓄えなどなく、両親は餓死(もしくは病死)してしまいました。


 どんなに生活が苦しくても親は弔ってやらねばなりません。しかし貧乏一家には墓を作るカネも土地もなかったのです。

 見るに見かねた地主が少しばかりの土地を貸してくれました。重八は空腹でふらふらになりながら家族の墓穴はかあなを掘ったといいます。


 その後途方に暮れた重八は、近所のばあさんの伝手つてで寺に入ることになりました。


 ◆ ◆ ◆


 当時はげん王朝末期の時代。

 すでにモンゴル族による支配体制は崩れていました。中華のあちこちで多くの武装勢力が名乗りを上げる群雄割拠の乱世。多数のならず者たちが土地の支配権を巡って覇を競っていました。


 そもそも国家が崩壊状態なので、法律なんか有名無実。だれも規律なんて守りゃしない。役人や地主はやりたい放題庶民からワイロをぶん取ります。国なんてアテにならねえからとにかく財産げんなまをかき集める——ってのは中華の伝統ですからね。


 あらゆる勢力から多重で税金をふんだくられ、もはや生活すらままならない当時の庶民。頼れる国は無く、対抗すべき武力もなく、ただ怯えて暮らすしかない。

 そんな無情の世。


 統治者が統治できない戦乱の中華世界。役人が平然とワイロを要求するような腐った社会。武人たちは縄張り争いに明け暮れて暴れ回っている。


 動乱の余波が寺にまで押し寄せると、もはやそこも安住の地ではなくなります。


 重八をはじめとした寺の人間たちは、追い立てられるように逃げ出しました。実家に帰る者もいましたが、両親死亡のき目にった重八に帰る場所などありません。少年は托鉢たくはつの旅に出ました。いわゆる物乞ものごいです。


 中華庶民の善意にすがるしか、生き延びるすべはありませんでした。


 重八少年は中国南部を転々とし、道行く人の『お恵み』でなんとか命を繋ぎました。


 ですが各地を渡り歩く中でふつふつと怒りが湧いてきました。若き朱重八は旅の中でこう思うようになったのです。

 恵んでもらうだけじゃ世の中は変えられない。だから——。


うえが頼りにならねえなら、自分で国を作ってやる』

 と。


 その後、武装勢力に入った重八はめきめきと頭角を現し、独自の組織を持つにまで成り上がります。庶民丸出しの【重八】という名前も【元璋げんしょう】と格好良いものに変えました。

 そして紆余曲折の果て、ついに華南地方の支配権を確立した朱元璋は【みん】を建国、初代皇帝に即位しました。


 ◆ ◆ ◆


 このように庶民100%だった朱元璋。皇帝に即位して真っ先に取り組んだのは庶民の救済でした。かつての自分を助けてくれた、心優しき庶民たちへの恩返しとして。


 17歳のときに寺へ行かせてくれた故郷の婆ちゃん一家には、子孫代々に渡る官職かんしょくを用意しました。皇帝から直々に手渡された特権です。


 他にも荒れ果てた国土を回復するための農業奨励しょうれいや税制優遇。庶民出身の朱元璋は、民こそ国の基礎であると理解していたのです。


 そして何より強く取り締まったのはワイロや汚職。庶民をこれでもかといじめていた不正は、朱元璋にとって絶対に許せないものだったのです。


 中国社会では、ワイロが常識だといってもいいほどはびこっています。

 一応法律の上で賄賂わいろはダメってことになっています。法律がきちんと適応されていれば庶民も普通に暮らしていけるんですが。しかしことあるごとに役人や地主が庶民に対してワイロを要求してくるのです。


 庶民の分際でワイロの要求を突っぱねると、まともに暮らしていけないようにされてしまいます。

 1回1回のワイロの金額は小さくとも、それが積み重なれば生活を圧迫していくでしょう。


 特に朱元璋の若かったころは元王朝末期。世は乱れに乱れ、小ズルい賄賂や横領の黄金時代でした。庶民時代、そのツラさをイヤというほど味わった彼は、絶対に不正を許せなかったのです。


 今までは国家が崩壊状態だったので不正は野放し状態でした。

 なので大明帝国初代皇帝・朱元璋は、新たなる中華の統治者として厳命しました。


『賄賂とか横領とか、不正は死刑ね』

 と。


 これって、庶民として生活してりゃ当たり前のことですからね。庶民出身の朱元璋もそう思っていたのでしょう。国民みんなが当たり前のことを守って暮らせば、世の中は平和で幸せになると。


 ですが、これでも不正は収まらなかったんですよ。

 この『誰も法律なんか守りゃしねえ』ってのは、非常に根が深い問題なのです。


 現代に『法ニヒリズム』という言葉があります。

 これは現代ロシアの状況について使われた言葉ですが、古今東西あらゆる国に当てはまるでしょう。


 意味は『法律なんて守って馬鹿をみるくらいなら、法律破ってお得に暮らそう』というどうしようもないもの。


 国民全体にこういう空気が蔓延まんえんしたら、だーれも法律なんて守りゃしません。法治国家の崩壊です。

 そして法が守られない社会では契約なんて成り立たない。まともな商売もできない。国民が安心して暮らせない。結果経済が、国家が衰退していきます。


 だから国家としちゃ何としてもこの『法ニヒリズム』っていうシラけた空気を払拭ふっしょくしなきゃならないんですよ。

 建国したばかりの皇帝・朱元璋としても、法治主義を根付かせるため精力的に取り組みました。


 ですがダメでした。

 いくらワイロや横領の犯人を処刑しまくっても、後から後から不正者が出てくるのですから。バレたら死刑だってのがわかってるのに。それでも役人や地主は不正をしまくるのです。


 だってその方が得すると思ってるから。今までずっとそうしてきたから。で実際100%不正がバレるわけじゃなく、なんとかなっちゃうケースも多かったから。


 そもそも国家の重鎮じゅうちんや皇帝の盟友ですら不正に手を染めていたのだから。


 悪人たちの圧倒的バイタリティとアグレッシブさは皇帝の予想を遙かに超えていました。役人も地主も商人も、みんなみんな不正していたのです。法律を作る側ですら、すきあらば法律を破っていたのです。


 だれも法律なんて守りゃしなかったのです。

 中華の大地には法ニヒリズムが蔓延しきっていました。皇帝という絶対権力者ですらどうにもならないほどに。


 ついに朱元璋は心が折れました。


 不正をやっていなかったのは、そもそも社会で何の決定権も持たない、かつての朱元璋のような最下層の極貧庶民くらいだったのです。


 皇帝という絶対権力をもってしても法ニヒリズムを一掃できなかった。異民族モンゴルからせっかく取り戻した中華世界では、これからも不正と汚職がはびこっていく——朱元璋は人生の最後にこのような無念と絶望を味わいました。


 ◆ ◆ ◆


 法治国家って難しいですね。

 紀元前300年代、古代ギリシャの哲学者プラトンがなげいたほどに、法令遵守じゅんしゅを根付かせるのは難しいのです。


 1398年、明の初代皇帝・朱元璋も同じように嘆きながらこの世を去りました。


 ◆ ◆ ◆


 参考文献


 檀上寛『明の太祖 朱元璋』ちくま学芸文庫


 富山栄子「ロシアにおける遵法精神の欠如 : 法社会学と経済史の側面から見たロシアの基層社会」、『環日本海研究年報 巻9 2002-03』新潟大学大学院現代社会文化研究科環日本海研究室


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 正月からなぜにこのような世知せちがらい話を……とはお思いでしょうが、正月だからこそ心機一転、気を引き締め直すのもまた一興——と思ったもので。

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