202、「帰らない」なんて言えないけれど

 震える大きな肩になんと声をかけたらいいかわからない。


 ギルなら大丈夫だと励ますか。しかし自分がいないと駄目だと泣いている相手にそれは追い打ちをかけている気がするし、だからと言って「帰らない」なんてその場しのぎの嘘は絶対に言いたくない。


 チカは困り果ててしまった。何を言えばいいんだろうか。


「ギル、チカを困らせてはいけません」


 あたふたとチカが両の手でギルの肩を叩いたり背中をさすったりしていると、いつの間にか傍まで来ていたシャノンがギルの首根っこを掴み、しがみつく子供を引き離すようにべりっと引きはがした。


 整っているギルの顔は涙でぐちゃぐちゃで、それはチカのブラウスにも移っており、シャノンは申し訳なさそうに眉をハの字にした。


「申し訳ありません。すぐにクリーニングに回しましょう」

「い、いやそれはいいんだけどさ」


 ちら、と子猫のように持ち上げられたままのギルに目をやれば彼はぐすぐすと「ご主人様ァ……」と実に情けない泣き声を上げていた。

 大の大人が自分のために泣きじゃくるというあまり遭遇したことのない状況に罪悪感を刺激され、チカは落ち着かずおろおろと視線を彷徨わせる。それに対し、シャノンは冷静なものだった。


「大丈夫です。感情機構が少々暴発しているだけでしょう。時間が経てばすぐに落ち着きます」

「そ、そうなの?」

「はい、なのでお気になさらず」


 幼稚園に初めて預けられた園児のような泣きっぷりはどうみても大丈夫とは思えなかったが、シャノンは特に何とも思っていなさそうな顔でギルを床に落とした。どさっという音と同時に「うギゃっ」という悲鳴が聞こえたが、それも知らんぷりでシャノンは話を続ける。どこか扱いが雑に思えるのは気のせいだろうか。


「あなたに『助けられた』と思う感情が強いためでしょうね」


 ゴミ捨て場での出来事。テルタニスに見捨てられ、危うく破壊されるところだったギル。そのときのことを言っているのだろうとすぐにわかった。


「……そんな、泣かれるほどのことはしてないけど」

「それは自分の行為を過小評価しすぎです、チカ」


 しかしあれはテルタニスにムカついて勝手に身体が動いていただけのことだ、とチカが控えめに言えば、シャノンは首を横に振る。


「どんな理由であれ、あなたがひとつの機械人形システムドールを救ったことに変わりはありません。それは十分称賛に値します」

「そ、そうかな」

「そうです。もっと誇ってください」


 真正面から褒められて気恥ずかしくなり、チカはぽりぽりと鼻の頭を掻く。無我夢中で動いていただけなのに、改まって言われると妙にむず痒い。さっきとは別の意味で落ち着かなくなり、チカは意味もなく手を組んだり離したりを繰り返した。


「……本当は、私もギルと同じです。できることならまだあなたに帰ってほしくない」


 唐突にシャノンが言う。その内容に驚いてチカが顔を上げれば、青い瞳とばちりと視線が合った。


「まだ、あなたから受け取った多くの恩を、返しきれていません」

「恩って、そんな大げさな」

「大げさなどではありません」


 少しだけ、シャノンの声が大きくなる。ボリュームのつまみをほんの少し「大」の方へと傾けたような些細な違いではあったが、それでもチカが驚くには十分だった。


「ギルだけじゃない。あなたは、我々を救ってくれた。立ち止まっていた私たちを導いてくれた」

「……導いたなんて、皆が頑張ったからでしょ?」


 チカがすべてをどうにかしたように聞こえるがそんなことはない。チカが来る前に行動していた皆の地盤があって、来てからもそれぞれの活躍があった。自分だけの力では決してないとチカは言うが、シャノンは胸元で手を握ったままふるふると首を振った。


「そうだとしても、あなたがいなければこの結末はありえなかった。皆で揃って、明日を迎えられるなんて、考えられなかった」


 青い目が濡れて光ったように見えて、それが光のせいか目の錯覚かとチカは目を凝らす。しかしそれはすぐに近づきすぎて見えなくなった。チカの肩に頭ひとつぶんの重さがあり、サラサラと音をたててプラチナブロンドがこぼれ落ちる。


「時間が、足りません」

「シャノン……」

「あなたはこんなにもたくさんのことを与えてくれたのに。大きなものを、残していってくれたのに、私は――」


 チカがいくらいいと言ってもシャノンは納得できないのだろう。何もできなかった、返せなかったと、自分を責めるのだろう。

 回されたシャノンの腕に力がこもる。寄せられた身体の震えを感じながら、チカはシャノンの背中に行き場のない手を置き、「それなら」と、口を開いた。


「じゃあさ、シャノン。私のお願い、聞いてくれる?」

「……なんですか」

「お別れするときにね、笑って見送ってほしいの」


 シャノンが顔を上げ、こぼれ落ちそうなほどに目を見開く。青い目が光を反射し、きらきらと大粒の宝石のように輝いた。


「だって、最後に見る顔が泣き顔なんて悲しいじゃない」

「――それは、ずいぶんと、酷ですね」

「うん。だからお願いしてるの。駄目?」

「いいえ、それであなたへの恩が、少しでも返せるというのなら」


 歪んだ眉を緩めて、シャノンがふわりとほほ笑む。それはまるで絵に描いたような完璧な笑顔。


 別れは、もう間近だった。

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