141、望んではいけない願いだとしても
※※※
清潔な消毒液の匂いと規則正しく並べらた大量のデータの背表紙と角のない机と椅子。今思えばそれはどれも自分たちを傷つけないようデザインされていたのだろう。クッションを敷き詰めた壁は柔らかく、床に躓くようなものはひとつだって落ちていなかった。転んでも頭を打っても、床が血で濡れることはない。かさぶたの出番はなく、子供たちはいつだって生まれたてのような肌をしていた。
誰も傷をつくることなど許されない柔らかな檻。だがそれは今考えるからそう思えるだけで、当時の男にとってはそれが当たり前であった。真綿でくるまれるような日常も、食べる量から眠る時間まで決められた生活も、手術を受けることが決定した未来も、何もかもが当然だった。
「何だよ、ちょっと言い返したぐらいでビービー泣きやがって」
だから現れた「それ」はあまりに異質に映った。
それときたらサボり、規定量以上の栄養摂取などは可愛いもので、挙句の果てには施設から脱走し、何食わぬ顔で戻ってきたのだ。
典型的な問題児。教育用ドールの顔を困らせるイレギュラー。周囲がどれだけ抑えようとも、それは何もかもがつまらないという顔をして赤い髪をばさりと振る。
それが、ベルという少女だった。
「なあ、おかしいだろ。やっぱ」
「どこが?」
「全部だよ全部。ふざけてる。まだ機械に全部任せる段階じゃねえっつーのに」
「今じゃ機械式くらい普通だろう。効率もいいし、医療者と患者、両方の負担だって軽減される」
「その普通が信用できる基準に達してねえから言ってんだろうが。まだあいつらのお堅い頭じゃムラがあるし、ウィルスなんて放っておいてもどんどん進化する。パターン対応外の対処には人間がいるっつってんのに、上の連中は全く聞きやがらねえ」
テルタニスの奴隷がよ、と続けて言うベルの憤りを滲ませた口調に、男は首を振る。どこで誰が聞いているかもわからないのに、軽率に口にすべき言葉ではないと思ったからだった。
「ベル。前にも言ったがそういう口の利き方は」
「『周囲の要らぬ反感を買うことになるし、第一、管理者に対する言葉遣いとしては不適切だ』だろ? 相変わらずお堅いねえ、カイン様はよ」
不思議なことにふたりの関係は施設を出た後も続いていた。最低限の機械化を済ませた彼女の言葉にはいつだって裏がなく、それが心地よかった。口ではあれやこれやと小言を吐きながらも、言いたいことを言う気持ちのいい率直な物言いを、カインは好ましく思っていた。
好意を持っていた、のかもしれない。ただそれは言葉にするには曖昧過ぎた。恋慕なのか、それとも自分に持ってないものを持つ相手に対する憧れか。どちらにしても判断できるほど彼は経験をもっていなかった。
けれどベルが事故に遭って、病室で別人となった友を見て、皮肉にも彼は初めてベルへの感情を自覚する。
ボロがまだカインであった頃、ザクロがベルであった頃。彼らが名前を捨てる前、まだ互いにテルタニスを支配者ではなく管理者と信じて疑わなかった頃の話である。
守らなければならない。あの日の出来事を二度と繰り返さないために。
排除排除とうるさい頭の中で、それだけが残っていた。男に言い聞かせるように、頭の中を這いまわる接続された思考を押しのけて、その言葉はボロの中を巡る。あの日のザクロのような被害者を出さないために隠れ住むようになってから、ずっと決めていたことだった。巣の長として、そうする義務があると考えてきた。
守らなければならない。自分の全てを投げ出すことになったとしても。
だから「殺せ」という言葉が口をついたのは自然なことだった。当然とさえ思った。このままでは守るどころか傷つけてしまうのだから。自分は今、チカとザクロの敵なのだから。
だというのに――
「っ、勝手に決める前に――『助けて』ぐらい言え!」
聞こえた声に、欲が沸いた。敵になって傷つけておいてそんな都合のいいことを、と考えながらも、大人しく倒されるのが一番の方法だとわかっていながらも。
ボロは前を見た。目の前の少女と、奥にいる見知った顔を見た。そしてらしくなく、気弱に下がった女の眉を見て、気づく。自分の最善の選択は、慕う相手にそんな表情をさせていたのかと。
カラカラに乾いた口を開く。全てを暴くようなテルタニスのものとは違う輝きに目を向ける。こちらを見つめるオレンジと視線が合い、その目が彼を鼓舞した。
「ち、か」
「……なに」
「すま、ない。すまない、じぶん、を」
それは許されない願いだった。酷く我儘な願いだった。安全を考えればそうするべきではない願いだった。
それなのに、そうとわかっているのに、ごちゃごちゃとした思考を押しのけて、見ないふりをしてきた、たったひとつのシンプルな言葉が、ボロを突き動かす。
死にたくない。
「――――たすけ、て」
チカたちにとっては迷惑極まりない願いだろう。だというのに、絞り出す様な彼の声に、異界から来た少女は当然だと言いたげに不敵な笑みを浮かべていて。
「あたりまえでしょ」
その表情にどうしてか視界が歪み、言葉にならない何かを叫び出したくなり、彼は突然襲い掛かってきた感情の波をどうにかコントロールしようと布の下で口を引き結ぶ。
それが久しく流していなかった涙のせいだとボロが気づいたのは、頬に幾筋もの痕ができてからだった。
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