123、今は顔を上げて

 できるなら初めからやってくれと言いかけて、チカは言葉を引っ込める。恐らくザクロもできるとは思っていなかったのだろうということが、その表情からよくわかったからだった。

 ザクロは己の拳を見て、それからこじ開けられた壁に視線を向ける。その目は赤い満月のように真ん丸だ。


「……開いたな」

「開いたね」

「初めっからこうすりゃ良かった、ってことか?」

「……そうかも」


 老朽化していたのか、それともザクロの馬鹿力がテルタニスの想定を上回っていたのか。壁はザクロが拳を当てた個所から外側へと、弾けるようにして破壊されており、壁の断面からはそれを支える鉄製の骨子がねじ切れて飛び出している。穴からは緩く風が吹き、籠っていたマネキン部屋の温い空気がそれに乗って外へと流れていった。


 はっきり言ってしまえば、今まで黙々としていたマネキン積みは無駄だったのだろう。だが、改めてそう口にしてしまうと途端に虚しさが襲ってきそうで、チカは細かいことを口にするのはやめる。

 とりあえず前向きに考えることにした。何はともあれ、出口は開いた。今はそれでいいじゃないか、と。


「じゃあ、出る?」

「……ああ」


 隠し切れない徒労感から目を背けながら、チカは穴へと手をかける。それに明らかに言葉数が少なくなったザクロが続く。激しい恋バナ直後とは思えない、何とも言えない空気感がふたりの間に漂っていた。


 喧嘩をした後のような微妙な雰囲気の中、初めに部屋の外通路へと足を踏み出したチカは、ザクロの方を窺うように振り返る。


「怒ってる?」

「……」


 返答は無言。しかしその表情がはっきりと不機嫌さを物語っている。ザクロはぶすりと口を引き結んだまま、視線を下へと向けていた。それはまるで揶揄われた後の小学生のようで、話題に触れることすらためらうオーラを漂わせている。

 少し面白くなって突きすぎたかもしれない、とチカの心の中にそんな罪悪感にも似た感情が沸き上がってきた。


「いや、好きっていうのは全然恥ずかしいことじゃないし。それに、ほら、ボロって頼りがいあるもんね」

「……忘れろっつったろ」


 ぼそりとようやく返って来た返答はやはりふてくされたもので、だがそれでも頭にのぼった血はついさっきよりも冷めたようだった。その声には拗ねた響きはあるものの、それこそ苛烈な怒りはない。


「別に、恥ずかしいとか思ってないよ。少し、驚いただけさ。それに――」


 突然のことで頭が冷えたのか、ザクロはどこか淡々とした口調で言葉を続けていく。


「今分かったところで、って話だろうさ」


 そのひと言で、チカは急に現実が迫ってくるのを感じていた。決して見ないふりをしていたわけではなかったが、心のどこかで考えないようにしていた事実が現実味を帯びた実態となって、チカの中に落ちてくる。


 ボロは、巣のまとめ役でザクロの思い人は、もうここにいない。足元から聞こえていたはずの冷静な声は、もうどこからも聞こえない。ただぽっかりと空いたひとり分の空白だけが、もうどこにもいないボロががここに存在したことの証明だった。


 そう思った瞬間にぐっと喉が詰まって、チカは胸を叩く。そうしないと、妙に濁った声が出てしまいそうで、チカはゆっくりと口から息を吐く。熱く湿った空気が抜けて、ひんやりとした通路の中に消えていった。


「行くか」

「……うん」

「いつまでもメソメソしてんじゃねーぞ。シャキッとしろ」

「別に、泣いてないし」

「嘘つけ」


 ザクロの声はいつの間にか拗ねた小学生から元の調子に戻っている。ザクロにしては気を使った力加減で背を叩かれながら、チカはツンと痛んだのを誤魔化すように鼻を啜った。

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