86、夢のような、いらない話

『お前さんはそうして話を伸ばし、隙を探っとるつもりなんじゃろうが、吾輩が気づかないとでも思っとったか』


 ゆっくりと近づいてくる、鎌のひやりとした感触を首に感じながらダグは自身を見下ろすジュリアスに視線を合わせる。人間だったとは思えない異様な赤レンズもまた、ダグの黒い目を覗き込むように見つめていた。


 ここまでか。


 そう思い、ダグは体を弛緩させる。血の抜けた手も足も頭も、鉛のように重かった。


「……なんだよ、気づいてて好きにさせてたのか?」

『ほほ、度量を見せるのも先達の務めじゃと思っての』

「知ってるか? そういうの趣味が悪いって言うんだぜ」


 余裕ぶってみせたことが余程面白い見世物だったのか、ジュリアスは鎌の冷たさとは反対に、朗らかに笑う。あがいていたことを初めから見抜かれていたなんて、酷い茶番もあったものだと、ダグは歯の隙間からため息を吐いた。だがそれはいつものような音にはならず、ただの微かな吐息となって宙に消えていく。


 水に映っているように、上半身だけのロボットがゆらゆらと輪郭を揺らす。安定しない目を二、三度瞬かせて、ダグはそこでようやく己の視界が霞んでいることに気づいた。


『まあ、小僧も小僧なりにようやった』

「あぁ? 今度は慰めかよ」

『いやいや、褒めとる褒めとる。そんな脆弱な身体でよくもまあそこまで吾輩に食らいついたもんじゃ』

「食らいついたところで、涼しい顔してるくせに、よく言うぜ」


 痛みは遠く、今はただ寒いばかり。瞼を重くしてくる睡魔にあらがいながら、ダグは返答のために口を動かす。

 見える何もかもがぼやけていて、同じように耳も聞こえにくい。気を抜くとジュリアスの声すら聞き逃してしまいそうだった。


『本心じゃて。吾輩は小僧が思っているよりもずっとお前さんの執念を買っとるんじゃ。それこそ、ここで消すには惜しいと思わせるくらいにはのう』

「何だよ、ここまでやっといて、同情で、生かしてくれるつもりか?」

『聞けばお前さん、あの旧式ドールのお嬢さんのために、テルタニスに挑んでいるらしいの』

「……あいつ、余計なことまでべらべら喋りやがって」


 敵対者から唐突に自身の目的に触れられて、ダグは一瞬一体どこでそれをと身構える。だが、すぐに思い当たる節にたどり着いて、小さく舌打ちした。

 どうせあの後先考えないお人好しのことである。きっとジュリアスの言葉に乗せられて、隠す気もなく目的を言ったのだろう。

 頭の中で暢気に笑いながら話すオレンジ頭が簡単に想像できてしまって、ダグは深くため息を吐いた。

 そんなダグにジュリアスはカラカラと笑って続ける。


『そんなに怒るな。無防備にこちらを信用したなんて、可愛いもんじゃろうが』

「俺には、全然、可愛くねえ、な」

『ま、そういうことじゃ。話は聞いておる。お前さんがあのドールのお嬢さんをどれだけ大事に思っておるかもな』


 そんなことを話している間にもジュリアスは鎌をさらに近づけてくる。

 首に鋭い痛みが走り、続けて鎖骨に何かがぬるりと流れる感触があった。見なくとも、その熱さと臭いで何が起きているかは大体想像できる。

 ダグはそれに泣くことも叫ぶこともせず、じっとジュリアスの言葉を待った。


『じゃから、我が子を愛してくれたその心意気に免じてあのドールのお嬢さんには新しい身体を用意しよう。脳内のメモリも部品も何もかもを新しく、未練が残らんよう、お前さんの成し遂げられなかったことを、吾輩が最善の形で叶えてやろう』

「……ほーん、新しく、ねえ」

『もう少しお前さんが素直ならの、小僧。ドールを愛する仲間として、同じ道を歩めたかもしれんのにのう。生まれ変わった彼女とも共に、新しい楽園を』


 何の問題もない、ジュリアスの言う楽園。ドールが酷使されず、支配する人間もテルタニスもいない、彼の提案する最善の世界。

 ダグはそれを想像する。埃っぽく暗い地下でなく、顔を隠す必要もなく堂々と都市を歩く風景を思い浮かべる。シャノンは今よりずっといい服を着て、ジュリアスが用意した新しくて丈夫な身体で。


「ああそれは大層夢みたいな話だ。――だが、俺はそんなの御免だね」


 だがダグはその夢のような話を一蹴する。ようやくと、瞳をギラつかせながら。

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