82、忘れられない過去の傷
「う、ぁ、わっ、うわぁぁぁぁぁっ!」
目に映るのは顔を隠すようにマスクと帽子で顔を隠した見知らぬ男が、錯乱した様子で包丁を振り回す姿。その後ろには引っ掻き回したようにぐちゃぐちゃの我が家と、足を押さえて蹲る父から零れ落ちる赤色。空っぽになって転がった、チカのキャラクターを模した貯金箱と、驚いたようにこちらを見る青ざめた母の顔。
「チカっ⁈ や、やめて! その子に、手を出さないで!」
目を血走らせた男が興奮に泡を口の端につけながらこちらを向いて、軍手で握った包丁を振り上げる。咄嗟に庇った腕に走る熱さと、目の前に散る赤い飛沫と手のひらから落ちた花びら。耳に刺さる母親の悲鳴と、まだ近くにいたらしい下校グループの叫び声。
自分はここで死ぬのかもしれない、と幼いあの日、チカは考えていた。生まれて初めて、死を近くに感じた瞬間だった。
※※※
あの日のことを、チカはよく覚えている。
あの日、母はスーパーでのパートを終えて家にいた。普段は午後のシフトだったが、あの日は休んだパート仲間の代打として、たまたま午前のシフトに入っていた。
父は午後に休暇をとって帰ってきたところだった。春になると箱ティッシュが手放せない程酷い鼻炎だった父は、平日しかやっていない耳鼻科に薬を貰いに行こうとしていた。
まったくの偶然にも、チカの両親がいつもより早く家にいたあの日。小学校に入ったばかりのチカは不審者情報が出たからと、これまた少し早く集団下校で家に帰っていた。帰った家に珍しく両親がいる事実に浮かれながら、散り始めた桜の花びらのお土産を潰さないように大事に手のひらに包み込んで。
チカは、見慣れた家のドアを開けた。鍵を探す必要がないことが、少しくすぐったくて嬉しかった。
「本当に、悪趣味」
――空き巣と鉢合わせ、夫妻重症。金目当ての犯行か。
今見ているのはそんな太文字の一文が新聞の角を飾る、少し前の出来事。忘れもしないチカの過去。心に刻み込まれた何でもなかったはずの日常が壊された瞬間のことだった。
間が悪いことに、チカの両親はたまたま揃って家にいたために、留守だと考えて家に侵入していた空き巣と鉢合わせ、酷い傷を負った。幸いにもチカは少し腕を切られる程度で済んだが、空き巣がつけた見えない傷は今も尚、深くチカを蝕んでいる。こうして、トラウマとなってチカの前に立ちはだかる程度には。
ご丁寧に痛みまである完璧な再現ぶりに、チカは目つき鋭く自身のトラウマを睨みつけながら、吐き捨てるように呟く。ジュリアスはどこまで人の中を土足で踏み荒らせば気が済むのだろう。
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