81、悪趣味な空間で
「ひ、酷い目に遭った……」
距離感がおかしくなる白い空間を巨大ダンゴムシとケントに追いかけまわされながらひたすら走り続けてしばらく。最悪の組み合わせがいなくなったことで、チカはようやく息を整えることができた。
全速力で走り続けた魔法少女は胸の上に手を置いて、荒く上下する肩を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。だがそれでもしばらくの間、心臓はやかましくバクバクと騒ぎ続けていた。
どう考えても走っただけのせいではない。チカは巨体に似合わず妙に素早いダンゴムシを思い出してぶるりと身体を震わせる。下手な強敵よりもよほど恐ろしい光景だった。
しつこく嫌なことをされていることを言うと一部の人間は「そいつに好かれてるから」なんて暢気なことを言うが、考えてほしい。現在進行形で被害を受けていてそれを訴えているときにほしい答えが「加害者にどう思われているかどうか」な訳ないのだ。好きも嫌いもクソもない。されている側が知りたいのはいつだってそいつをどうやって懲らしめるかだ。
というか個人的には嫌なことをしてくる時点で恋愛対象外だこの馬鹿アホすっそこどっこい恋愛思考回路幼稚園からやり直して一昨日来やがれなのだが、嫌がらせアプローチが上手くいくと思ってやっている人間はなかなかにやべー奴なのではないだろうか。そう思うチカである。
「……にしても、本当にここなんなのよ、一体」
数分かけてようやく平常心を取り戻したチカは改めて辺りを見渡す。さっきは急に追いかけられたのと気が動転していたのとでよく見ることができなかったが、改めて見ても目の前にあるのは変わらずおかしな光景だった。
何もない真っ白な空間はどこまで続いているのかもわからない。ずいぶんと走ったが、行き止まりには当たらなかった。
それに、おかしいのはそれだけではない。
チカはちらりと背後に目を向ける。そこには誰の姿もなかった。ついさっきまで彼女を恐怖のどん底に突き落とした小学生ケントも、巨大ダンゴムシも。
どこかに行った、というより文字通り「消えて」しまったのだ。チカを追いかけている最中に、パッとその場でいなくなった。
夢、という単語がチカの脳裏をよぎる。だが、それにしては意識がずいぶんはっきりしていた。
おかしいことだらけである。急に現れたこの空間も、過去の嫌な記憶を掘り起こす様なあり得ない年齢のクラスメイトも巨大ダンゴムシも、冷静に考えればありえない状況だ。それでも完全に「あり得ない」と断言できないのがこの異世界の恐ろしいところだが。
「あの野郎が何かしたってことはわかるんだけど」
分かることと言えば、意識を失う寸前にジュリアスが言っていた「トラウマ」という言葉が今の訳のわからない状況と関係があるということだった。
トラウマの意味くらいはチカも知っている。つまりは心の傷、というやつだ。
「思い出したくもない出来事」が精神的な傷となって残ってしまった状態。チカにとってのダンゴムシやケントのように。
「トラウマって……ひょっとして、今からずっとああいうのに追いかけられるってことじゃないでしょうね」
ひょっとしてあの野郎は人にトラウマを見せ続けて、こっちが衰弱するのを待っているのだろうか。
そこまで考えて思い浮かんだジュリアスの悪趣味なやり方に、チカは頬を引きつらせる。こんな状況がずっと続くなんてあまり考えたくないことだ。
だが思考が嫌なことのループに囚われる前に、チカはいやいやと首を振った。
「はっきりしないことをぐだぐだ考えても仕方ないでしょ! しゃきっとしろ!」
己を鼓舞するようにそう言って、頬を軽く叩く。起きてもいないことを悩むより、少しでも現状を打破するために動く方が有益だ。それに、考えるばかりで動かないなんてらしくない。
その場で深呼吸をし、チカは気合を入れ直す。ここがトラウマの中だろうが、ジュリアスの罠だろうがどうでもいい。ここから出てぶん殴る予定に変わりはないのだから。
「ダグの奴もそう簡単にやられるようなやつには思えないけど、いや、でもあいつ貧弱ガリガリ鶏ガラだからなぁ……」
シャノンのこともあるし、いい感じに生き汚い奴ではある。が、血が流れていることもあるし、早く合流するに越したことはないだろう。
さっさとこんなとこ出て、早く合流しよう。そう思ってチカはステッキを握る手に力を籠めた。手始めに、まずはこの白い空間に穴が開くか確認しようと意識を集中させる。
だがその時、チカは視界を横切ったものに視線を奪われた。
「――――」
ああそうか。もしここがトラウマの世界なら、これだって出てくるか。
頭のどこかでそうぼんやりと考えながら、チカはパッと散った赤い飛沫に顔を顰めた。
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