79、忌々しい蜘蛛の罠
「ど、どう? やった?」
キーンとした耳鳴りがおさまらない中、チカは暗闇の中に問いかける。間近で轟音を聞いたせいか、耳が痛かった。瞼越しとはいえ強い光を浴びたせいか、視界も悪い。瞼の裏には光の名残が焼き付いたように、暗い緑のモヤが浮かぶばかりだ。
蜘蛛の影は見えなかった。何かが動いているような音も聞こえない。
チカは恐る恐る目を開く。もし目の前にあの気色悪い足が残っていたらどうしようという気弱な考えが頭をよぎるが、それも杞憂に終わった。
「……いない」
目を開ければそこに恐れていたあの八本の足は無く、奥へと続く暗い線路の上に真ん中に穴を開けた何かの塊が転がっていた。よくよく見ればその塊には尖った足のようなものが見え、チカは素早く塊から目を逸らす。どうやらもう蜘蛛の足は動かないようだ。
だが安心するのも束の間、チカはおかしなことに気づく。何故か蜘蛛の足だけでなく、閉じるまで見えていたはずのロボットの上半身も消えているのだ。
争いの音に乗じて撤退したか、それとも姿を隠してこちらの隙を伺っているのか。どちらにしろ、まだ油断しない方が良さそうである。
「ねえ、ダグ。あのロボットは」
警戒を解かないまま、チカはどうしてか黙ったままのダグに問う。しかし後ろを振り返って、チカは目に入ってきたその姿に飛び上がった。
最後に見たダグの姿は傷で消耗し座り込んでいたものの、意識は確かにはっきりとしていたはずだ。それこそ余計な軽口を叩きながら、チカに指示を飛ばせる程度には。
だが今見えるダグは壁にぐったりと寄り掛かり、浅く荒い呼吸を繰り替えすばかりだった。ただでさえ悪い顔色が、今は紙のように白くなって暗がりに浮かんでいる。
「ダグっ⁈ ちょっと、どうしたの!」
『……吾輩がどうして小僧の好きにさせていたか、わかるかな、お嬢さん』
血を流し過ぎたのかとチカは駆け寄ろうとして、聞こえてきた声に足を止める。見失ったと思っていた上半身は、闇からずるりと姿を現した。
ダグの傍に突如として現れたジュリアスは変わらない声色で続けた。
『小僧を黙らせれば小手先の作戦などたやすく崩せるというのに、何故それをしなかったのか』
「……ダグから離れてっ!」
『それはな、時間稼ぎのためじゃよ』
「時間稼ぎ? そんな、何のため、に……っ!」
ダグの首に鎌を近づけるジュリアスに怒りの眼差しを向けながらチカは強くステッキを握り、球体状の頭に照準を合わせる。が、その瞬間に目の前の景色が出来損ないの水彩画のようにぐにゃりと歪み、チカは思わず片手で顔を抑えた。
ジュリアスに何か、細工をされた。
身体に異変が起きてからその結論に至るまでは早かった。だが、気づくのが少し遅かったらしい。ジュリアスの施した小細工は、すでに手足を蝕んでいた。
「っ……それ以上、ダグに、何か、したらぁっ、承知、しないんだから!」
それでも重くなった身体を引きずるようにしてダグへと進むチカに対し、ジュリアスは慌てることなく話を続ける。
『小僧を仕留めることもできた。じゃが、それをやってしまえばきっとお嬢さんは酷く怒るじゃろう。お嬢さんの魔法は酷く強力じゃ。捨て身の攻撃でもされれば、流石の吾輩でも被害を完全に抑えることはできそうにないのでな』
まるで夢の中を歩いているようだった。身体がまるで言うことを聞かず重たい泥の中を歩いているような、もどかしくて、苦しい夢。
視界がさらにかすみ、ダグの姿もよくわからなくなってくる。震えが止まらず、べたべたと汗に濡れた身体が気持ち悪い。
けれどチカは止まらなかった。症状が悪化し、どんどん自由が利かなくなっていく中で、それでも気力で踏ん張って前に向って進み、手を伸ばし続けた。
『じゃから、最小限の被害に抑える方法をとらせてもらった。どれ、そろそろ目もよく見えなくなってきた頃合いじゃろ』
だが、それにも限界がきたらしい。チカはさらに酷くなった視界の歪みと吐き気に耐えきれず、その場に膝をついてしまう。
ぐらぐらと揺れる視界の中、チカはかろうじて動かせる首を上にあげ、こちらを見下ろしてくるジュリアスを睨みつける。余裕なその赤レンズに長く口汚い罵りのひとつでもぶつけてやりたかったが、舌がうまく動かせない。痺れた舌は、口の中でもつれ、発話の邪魔をする。
「クソ野郎が……っ、私に、何を」
それでも何とか吐き出したチカに、ジュリアスは淡々と答えた。
『覚えておくといい。世の中には飲まずとも掠るだけで致命傷になる毒も存在するんじゃ。ま、それは吾輩が作った薬じゃ。死にはせんよ』
お茶の後で襲われたときか、それとも目を覚まして蜘蛛の足に飛び掛かられたときか。はたまたそれ以外のどこかのタイミングか。この口ぶりだとあの紅茶にも何か仕込んでいたに違いない。口をつけなくて正解だった。
どの段階で毒を仕込まれたのかはわからない。だが、ジュリアスの言葉からわかることがひとつだけあった。
ジュリアスは初めから、チカが仕込んだ毒で動けなくなるこの状況を待っていたのだ。蜘蛛が巣にエサがかかる瞬間を待ち構えるように、何度も繰り返す「最善」の方法で。
テルタニスを嫌っているくせに、あのAIと同じで回りくどくていやらしいやり方をするのね。
そう嫌味を言ってやろうとしたが、それは声として出ることなく消えていく。強い眠気にも似た抗えない倦怠感がチカの体を包んでいた。ゆっくりと意識が遠のき、手足の感覚がなくなっていく。
ぐらりと身体が傾き、それに抵抗もできずにチカの身体は地面へと倒れていく。
『さ、少しばかり大人しくしてもらおうかの。
ぼんやりと聞こえた忌々しいジュリアスの言葉を最後に、チカの視界は完全に暗転した。
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