71、もう逃げるだけではいられない



 ※※※



 子供は走っていた。目の前の女に手を引かれ、半ば引きずられるように足を懸命に動かす。が、その速度に身体がついていけず、子供は胸に手を抑えて苦しそうに息を吸い込む仕草を見せた。黒い髪が汗で濡れ、病的な白い肌が紅潮している。実験着のように見える簡素な灰色の服には濃い汗染みが浮き、彼のやせ細った体に張り付いていた。


「心拍上昇を確認。少し休憩を」

「駄目だよ! そんなことしてたら追いつかれちゃう!」

「それならやはり私が抱えた方が」

「やだ! 手を塞いだらお前の足手まといになるだろ!」


 普通よりも早い子供の呼吸音に女は足を止めて振り返るが、黒髪の少年は彼女の提案を振り払った。駄々をこねるように首を横に振り、しかし何かに怯えてちらちらと後ろを振り返っている。

 幼い脳内をよぎるのはついさっき逃げ出したばかりの場所。子供が大人になるまで教育し、大人になった瞬間彼らに機械化を施す教育施設。


「……わかりました。子供に負担のない速度を再計算――」

「そういうのいいから! 早く!」


 似たような顔ばかりのその場所で、周りと馴染めなかった彼の専属教育係にとあてがわれたのが彼女だった。うまく周りと協調出来ないさまを欠陥品と笑われて、それを慰めてくれたのが彼女だった。

 機械化して人が変わってしまったような誰かを見て、機械化手術が怖いと泣く少年に「逃げる」という選択肢をくれたのが彼女というドールだった。


 少年は忌々しい胸元の番号に視線を落とす。自分の所属クラスを表す「D」と、その中で何番目の子供であるかを示す番号の羅列。その桁は優に四桁を超えている。

 少年のいたクラスは数日後に機械化を控えていた。生まれた日でクラスが振り分けられるために彼らは一斉に大人になり、クラスでまとめて大人になるための手術機械化を受ける。その準備の隙をついて、ふたりは逃げ出した。ドールが手引きをして、見張りをかいくぐった。


 うまくいっていた。けれど、ふたりがいないことに施設の人間が気づいたのは思ったよりも早く、ドールと少年は追われる中を必死に走っている。


 少しでも施設から離れたくて、少年は熱をもった足を動かす。だが過度な運動と緊張に疲れ果てたそれは泥沼にはまってしまったかのように重く、うまく動かせない。

 少年は目に垂れ落ちてくる汗を袖で乱暴に拭った。自分の意志とは反対に震える腿を平手で何度も叩く。早く逃げなければならないのにと、動かない身体に焦りと苛立ちばかりが募っていった。


「もっと走って、もっと遠くに逃げなきゃ。俺のことはいいから」

「……いいえ、これ以上のストレス負荷は看過できません。休息をとるべきでしょう」

「いいよ! そんなことより見つかったら――」


 興奮したように言って、少年が咳き込む。無菌室のような場所で生まれてからずっと過ごしてきた少年にとって、見つかるかもしれないという過度のストレスや身体への過負荷は劇薬同然だった。だが、それでも少年は止まるわけにはいかなかった。役割に背いたドールはスクラップ室に連れていかれるという話を聞いたことがあるからだ。

 自分は厳重注意で済むかもしれないが、手助けをしてくれたドールは、もしかしたら――。


 浮かんだ恐ろしい想像を振り払って、少年は再び立ち上がる。こんなところで休んでいる場合ではないのだ。


「いこう。見つからない場所まで行けたら、ちゃんと休むから」

「……わかりました。見つからなければいいのですね」


 けれどそう決意したにも関わらず、ドールがするりと手を離す。どうして、と言おうとしたのに少年の口から零れたのは乾いた息だけだった。


「少しの間、私が囮になります。あなたは話した通り、地下に住む彼らに助けを求めてください」

「……え?」

「これなら予定よりも三十秒早く休息がとれるでしょう」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 話を切り上げてさっさと歩いて行くドールの背に少年は必死に手を伸ばす。けれど手は空をかくばかりで、一向に距離は縮まらない。

 ひとり残される恐怖がこみ上げ、少年は上ってくる嗚咽を抑え込みながら叫ぶ。


「おま、お前、が、いなくなったら、誰が俺を守るんだよっ!」


 泣き出す寸前の、まるで癇癪のような声。それは情けなく震えていて、頼りがいも何もあったものではなかった。

 そんなぐずった子供の言葉にドールが少年を振り返り、目の前でプラチナブロンドがふわりと舞った。

 本で見た飴細工の糸のように、それはキラキラと暗闇を照らす。


「大丈夫。私の身に何があっても、必ずあなたの元に戻ります」


 駄目だ、シャノン。行っちゃ駄目。

 そう言おうとしているのに少年の唇はうまく動かず、言いたかった言葉は口の中で絡まるばかり。足は泥に浸かったように動かず、一歩も前に進めない。出ない声は宙に空しく消えていく。

 そして、白い背中はじきに暗闇に侵食されるように見えなくなった。



 ※※※



「…………ぅ」

 目を開けて、身体の痛みにダグは顔を顰めた。どうやら砲撃の衝撃に背中を打ち付けたらしい。チカも一緒に飛ばされたようだが、自分がクッションになったようで幾分かマシだった。奥の方でシャノンが起き上がろうとしているのも見えて、ひとまずほっと息を吐く。

 だが、無事なのはこちらだけではないらしい。


『あぁ、可哀そうに可哀そうに。ここまでボロボロになってまで人間のおもちゃになって』


 パラパラと衝撃に崩れ落ちる破片の音。それに混じって聞こえるあの蜘蛛の声。

 まったくの無傷、というわけではなかった。シャノンの蹴りとギルの砲撃で蜘蛛の胴体部分には大きくへこみ、砲撃の焦げ跡もついている。

 しかしそれだけだ。蜘蛛はさして自分の傷に対して興味もなさそうに、ボロ雑巾のように転がるギルの傍に立っている。


『すまないことをした。けれど、吾輩も引くわけにはいかないんじゃよ』


 心底申し訳なさそうな口調で話しながら、蜘蛛がそっとギルの体を仰向けに動かす。その時、ダグの目に入ってきた満身創痍のドールの姿が、過去に見たシャノンと重なった。


 施設から逃げ出した直後、ダグを置いて行ったシャノンは自身の体を引きずるようにして帰ってきた。胸に大きな穴を開けて、致命傷を負いながら、ダグを守るために。


 痛みに震える指先で、ダグは上着の裾を持ち上げる。

 きっと逃げてもあの蜘蛛はすぐに追いついてくるだろう。そしてまた、ダグを守ろうとしてあのドールは簡単に身を投げ出すのだ。あの日、その胸に穴を開けたときのように。

 倒れたシャノンは胸以外も傷だらけで、もう二度と起きないんじゃないかとダグは本気で思った。何もできない自身の無力感に打ちひしがれて、馬鹿みたいにただ泣いた。


 ――もう、逃げるだけじゃ駄目だ。守られるだけじゃ、駄目なんだ。


 地面に肘をつきながら体を持ち上げて、ダグは自身の武器であるドローンを宙に浮かせる。その頭に「逃走」の文字は無い。黒い目は焼け焦げるような力強い光をギラギラと放っている。

 もう、あんな思いをするのはごめんだった。

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