70、噛みつくドールたち

『さて、と。お前さんはどうじゃ、小僧。吾輩としては聞きわけが良いほうがありがたいのじゃが』


 蜘蛛の赤い目がゆっくりとこちらを向く。いくらでも隙はあった。だというのにダグの身体は地面に縛り付けられたように動かなかった。八本の足がその巨体を引きずって迫ってきても、ダグはシャノンの姿を隠す砂煙から目を離すことができない。

 その間にも蜘蛛は近づいてくる。


『可哀そうにのう。ドールのお嬢さんにはすまないことをした。痛かったろうに』

「――お前が、やった、くせに」

『ああそうじゃ。小僧とお嬢さんの聞き分けが悪いから、罪もないドールが犠牲になった。お前さん方がもっと協力的なら優しくもてなしてやれたというに』


 勝手なことをぺらぺらと話しながら蜘蛛はその長い背骨のような部分を伸ばし、赤い目をダグに近づける。内部のレンズが稼働するカシャカシャという音が、微かに耳に届いた。

 長い足がゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。


『可哀そうに、可哀そうに。お前さんら、人間のせいで――』


 何勝手なことを言ってるんだ。先に手を出してきたのはそっちのくせに。

 そう言い返したいのに、声が凍ってしまったように出てこない。早くチカを連れてここから離れなければと思うのに、身体が思うように動かない。

 早く、動かない、逃げないと、シャノンを置いていけない、でも――。

 焦れば焦るほど思考は泥沼にはまっていく。最善の手を考えようとして、感情が邪魔をする。失うことへの恐れが、身体を縛り付ける。

 蜘蛛が迫っていた。ダグへ、そして腕の中の少女へ。


「その言葉を、訂正、しなさい」


 だが蜘蛛の足が届く寸前に、凛とした声が空気を震わせる。

 視界の端に、倒れたはずのプラチナブロンドがなびいているのが見えた。


「私が彼を助けたいと、そう思ったから私はここにいるのです」

『――――』

「可哀そうと、思うのは自由です。ですが、それを彼に押し付けないで」


 瓦礫と砂埃の中から、シャノンは立ち上がっていた。服は汚れ、髪も乱れてはいたが、その立ち姿には不思議と力強さがあった。

 シャノンは青い目に光を宿したまま、ダグに向って言う。


「ダグ、走りなさい」

「――けど、けど、それじゃあお前が」

「人命が最優先です。今、彼女を守れるのはあなたしかいないのですよ」


 外側も中もボロボロなのに、今だっていつ倒れてもおかしくないのに、シャノンはダグの背中を押す。置いて行った結末がどんなものになるか分かった上で、ドールの彼女は自分ができる最善の選択をする。

 置いて行けと、目が語っていた。


「――っ、待て、シャノン!」


 蜘蛛に走っていくシャノンへ咄嗟に伸ばした手が、何もつかめずに空を切る。


 また何もできず、守られてばかりで。子供のころから自分は何も変わっていない。

 その事実にダグが歯を食いしばった、そのときだった。


『っ、なんじゃ⁈』


 暗闇から飛び出してきたものがいた。

 突如として現れたそれは俊敏な動きで飛び上がると、巨体に躊躇なく飛びかかる。蜘蛛の体がぶつかってきた衝撃で大きく傾いた。


 驚きに点滅する赤いレンズに照らされて、見覚えのある青色が闇の中に浮かび上がる。ダグの目に入ってきたその姿は実に酷いものだった。


 身体は煤け、服はところどころに穴が空いている。青い髪はかき混ぜたように絡まっており、元の美丈夫が見る影もない。

 だが、その姿以上に目を引くのは一本だけになったその腕だった。


「……ご、主人、様、に――――」


 ギルの左腕は肩部分から吹き飛んでおり、何も無くなった肩口からは無残に引きちぎれた配線が垂れ、ねじ切られたような銀の内骨格が飛び出していた。残された右腕も皮膚部分が剥がれたらしく、ドールの機械的な部分が剝き出しになっている。


 その腕一本で、ギルは蜘蛛にしがみついていた。紫の目がギラリと凶悪な光を湛えて目の前の怪物を睨みつける。自身より数倍大きな巨体を相手にしているというのに、臆している様子はまったくなかった。怯むどころか蜘蛛に対し、こちらにも伝わってくるような怒気をまき散らしている。


 悪い予感を感じ取ったのか蜘蛛がギルを振りほどこうと体を捩り、振り回される痩躯を腕で叩きつけるが、揺らそうが叩こうがギルの腕はがっちりと蜘蛛の背骨部分を掴んで離さない。それどころか執念の強さが増すように、剥き出しになった手の骨格が蜘蛛に食い込むばかりだった。

 打ちのめされながら、振り回されながら、それでも怯まない血を吐くような叫び声が通路をビリビリと震わせる。


「――――さ、わる、ナぁ、ァアアアッ!」


 瞬間、掴んだ腕と蜘蛛の間から閃光がほとばしり、視界がカッと白く染まる。

 掴んだ部分からゼロ距離で砲撃を放ったのだと気づいたのは、そこから遅れて体を揺さぶるような轟音が聞こえてからのことだった。

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