69、仕方がないと、蜘蛛は言う

「ダグッ! 頭を下げて!」

「う、おおおおぉぉっ⁈」


 脳が考えるよりも早く、ダグの体は反射的にシャノンの声に従って膝を折る。瞬間、彼の頭すれすれの空間を、蜘蛛の大鎌が刈り取っていった。

 あと少し頭を下げるのが遅かったら。そう考えると背筋にゾッと冷たいものが走る。


『おや、お前さんがたは――――』


 蜘蛛の赤いレンズがこちらを見て、つい今しがたダグたちに気が付いたような声を上げる。どうやらダグが抱えているチカ以外、目に入っていなかったらしい。危うくついでで殺されるところだった。


 視線がダグの方へと向いた、その隙をついてシャノンが蜘蛛の脇腹目掛けて渾身の蹴りを放つ。がぁんっ、と金属同士がぶつかり合い衝撃で跳ね返る音が響き、それと同時に蜘蛛がバランスを崩したように傾いた。


 シャノンは蜘蛛が体勢を持ち直すよりも早く、追撃を仕掛ける。再び大きく足をしならせると、ボールの如く丸い蜘蛛の脳天に踵を落とす。その威力のすさまじさたるや、隕石が衝突したかのようだった。

 どごぉんっ、と線路に蜘蛛の頭が打ち付けられ、その衝撃で狭い通路の中に砂煙が充満する。


「今のうちに少しでも奥へ。距離をとってください」

「わかってる! つーかなんだよ、この化け物⁈」

「わかりません。しかしこの声はゴミ捨て場で聞いたものと一致します」

「じゃ、やっぱりあれは――」

『おお、やはりドールのお嬢さんと小僧か』


 聞き間違いではない。思った通り、目の前の化け物はゴミ捨て場で偶然にもダグたちを助けた黒猫、そしてチカをラーフカンパニーへと誘導したあのピエロだったものらしい。

 一体何がどうなればこんな姿になるのか。しかしそれを暢気に聞き出す暇はなさそうだった。

 あれだけの蹴りをくらったというのに蜘蛛はすぐに起き上がったのだ。

 

『いやはやまさかこんなにも早く再会するとはのう。どうじゃ小僧。少しは守られているばかりではなくなったか?』

「……お前、こいつに何をしたんだ?」

『いや、吾輩だってもちろん手荒な真似はしたくなかったぞ? だがな、お嬢さんはかなり頑なでのう』

「言うこと聞かなかったからズタボロになるまで痛めつけたって?」


 見た目とは裏腹に気さくな話口調がかえって不気味だった。ダグは軽口を叩きながら、じりじりと後退する。同じ場所から現れたことと話の内容から察するに、チカをこんな状態にした犯人は目の前の蜘蛛の化け物で間違いないだろう。

 一体なんだってそんなことを。そう思いながらダグはチカを抱えた腕に力を籠める。

 

『のう、大人しくお嬢さんをこちらに渡してくれんか。吾輩としてもこれ以上こんなことはしたくないんじゃ』

「は、こんな目に遭わせた張本人に渡せって? 信用できるかよ」

「同意します。要請がどのようなものであれ、この状態の彼女を渡すことは容認できません」

『ううん、吾輩、計画を進めたいだけなんじゃが……』

「そのためにズタボロにすんなら残念だが他を当たんな」


 一歩、また一歩と蜘蛛から目を離さないまま後退する。とにかく今は少しでも距離をとりたかった。話して、距離をとって、一瞬で追いつけない程度に離れてから一気に走り抜ける。

 幸いにも蜘蛛はその場に止まったままで、このままいけばすぐに走り出すのに十分な距離を確保できそうだった。


『それでは、仕方ないのう――』


 そう思った瞬間に、ダグの目の前で白い姿が宙を舞う。


「――え」

『仕方がない、のう。お嬢さんを奪われるわけにはいかん。すまないのう、ドールのお嬢さん』


 反応すらできない、突然の出来事だった。横から薙ぎ払われるようにして飛んできた蜘蛛の足を避けられず、シャノンは身体を宙に浮かせて勢いよく背中から壁へと突っ込む。青い目が驚愕に見開かれ、その姿を衝撃で立ち上った砂煙が覆い隠していく。

 あっという間だった。あまりにもその結果はあっけなかった。


「シャ、ノ――――」


 ダグは震える口を開き、ドールの名前を呼ぼうとする。だが、それも結局最後まで形にならなかった。


『これもすべて、吾輩の最善のため。より多くを、救うためなのじゃ』


 まるで自分自身に言い聞かせでもしているかのように、ぽつりぽつりと蜘蛛が言う。

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