倒れた彼女を守るもの

68、異常事態に現れる異形

「――――ダグ、今すぐに彼女を連れて撤退を」

 

 埃に塗れた顔色は悪く、反対に髪色は不気味なほど鮮やかだった。よく動いていたはずの口は半開きになったまま固まっている。目は開かない。彼女が身にまとう柔らかな白いフリルが、粉塵まじりの風に吹かれて微かに揺れていた。けれど、その下の足も手も、何の反応も示さない。


 動かない。何の反応もない。倒れたまま行儀のよい展示物のように固まったチカに、ダグはヒュッと、喉を鳴らして氷のように冷たくなった胃をさらに冷やす。混乱が脳を支配して、身体への指示がうまく通らない。

 ダグは出来損ないの操り人形のようなぎこちない手つきで、横たわったままの少女に手を伸ばした。


 ――死んでしまったと、思った。


「ダグっ!」

「―――っ!」

「微弱ではありますが生体反応は残っています。死んではいません!」


 だがぼんやりと霞みがかった思考を澄み切った、しかし激しい一喝に引き戻される。シャノンの言葉にダグは雷に打たれたように背筋を震わせると、強張った腕に力を入れて瓦礫に頭から突っ込んだままのチカを抱き起こす。


「おいっ! しっかりしろ!」


 チカの身体からは力が抜けきっていて、ぐったりとダグの腕に身を預けている。お世辞にも状態が良いとは言えない。しかし、その肌は蝋のように冷えて固まったもので死者のものでなく、まだ生きている人間特有の柔らかさがあった。

 まだ生きている。

 その事実に内心でほっと息を吐きながら、ダグは一瞬でも動揺した自分を恥じるように舌打ちをし、その失態を隠すように語気を強める。


「っ、くそ、こいつに一体何があったってんだよ!」

「わかりません。ですが、チカが何かに追い込まれていたというのは確かなようです」


 ダグは腰に力を入れ、チカの胴に腕を通して脇に抱えた。途端、緊張が解けたように彼女の服装がフリルとリボンの衣装から元の服へと姿を変えるのを見て、ダグは眉間の皺をさらに険しくさせる。


 力を使い切って倒れる姿を見るのは二度目だった。だが、ネズミのときに比べると明らかに状態が悪い。あのときだって確かに疲れ切った様子はあったが、ここまで消耗した様な雰囲気はなかった。

 抱えた腕から伝わってくる確かな心拍音に、ダグは抱える力を強める。魔法と言う他を圧倒する力を持つチカを、ここまで追い詰めたのは何者なのか。気になるところではあるが、今はそんなことを考えている暇はなさそうだった。


 シャノンはそんなダグの考えを読み取ったように、いつもの冷静な口調を少し早めながら言う。

 

「考えるのは後です。とにかく今は少しでも早く彼女を安静に出来る場所に連れていくべきでしょう。反応はありますが、酷く弱い。消耗が激しいのでしょう」

「あー、わかってる! とにかく当初の目的は果たしたんだ。こんな不気味な場所からはおさらばしてとっとと巣に――」


 早く安全な場所に、安静にさせて目が覚めたら何が起きたかを聞きださなければならない。ごちゃごちゃと考えるのはその後で十分にできる。今はただ、命を最優先に動くだけだ。

 けれど、ダグの言葉は終わりまで続かなかった。チカが開けた大穴の向こう側、暗闇の中から響いてきた声がダグの声を遮ったのだ。

 それは聞き覚えのある声で、穏やかに言う。


『おや、おや、おや。やりすぎたかのう? けど、生きておるよな、お嬢さん』


 まるでお転婆な孫をたしなめるような知性を感じさせる口調は酷く不気味で異常だった。聞いていて平衡感覚が無くなるような不安感に襲われ、ダグは無意識に手を固く握りしめる。


 甲高い少女のような音、それなのに重ねた年の多さを感じさせる言葉遣い。歪で、不自然な作り物であることを表す音に鳥肌が立つ。

 それがあの胡散臭いピエロのものだと気づくのと同時に、シャノンが叫んだ。珍しく慌てた様な声だなと、頭の片隅が暢気な考えを浮かべる。


「走ってください! 早く!」


 ダグと動かないチカを庇うように立ちふさがったシャノンのプラチナブロンド越しに、それは現れた。

 ぬっと穴から飛び出た長い足。その鋭利な先端が二本、崩れた壁を掴んでずるりと巨体を引きずるように穴から姿を見せる。残りの足がカチカチと地面を打つ無機質な音が、やけに大きく辺りに響いた。


 円形に生えた鋭利な八本の足。それに支えられるようにして、中央には足と同じく銀の胴体があった。背骨に似た異様に細く長い胴の上には顔のようにも見える球体と、その真ん中についた大きく真っ赤なレンズ。

 ダグは過去の記録アーカイブで見た蜘蛛の形状を思い出していた。まるで蜘蛛の足に人間の胴をくっつけたような異様な姿。しかし、人間にも蜘蛛にもない胴から生えた二本の鋭い鎌のような腕が凶悪な敵意と存在感を放っている。


 それの全体を視界に入れた時、ダグはぬいぐるみの姿と目の前の異形の物体がすぐには結びつかなかった。けれど聞こえる特徴的なあの声が、ダグに現実を突き付けてくる。


『だが、このくらいせんと聞いてくれんじゃろ。どうじゃ? 観念して、吾輩の計画に協力してくれる気になったかのう』


 間違いない。この怪物は、確かに自分が知っているあのピエロなのだと。

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