62、自分に正直。それでいい

 ジュリアスの言葉にチカはオレンジの目を丸く見開いた。魔法を増やす。そんなこと考えもしなかったし、出来るとも思っていなかった。


「で、出来るの? そんなこと」

『正直な話、可能性は五分五分じゃ。流石の吾輩も異世界の力の再現なんぞしたことがないからの』


 しかし、と言いながら丸い顎に手をやるジュリアス。人間だったころの癖だったのか、ジュリアスは数度、何もない顎下を撫でるような仕草をしてチカを見上げた。

 ぬいぐるみの目のはずなのに、どこか理知的な輝きを見せながらジュリアスは続ける。


『お嬢さんがいる。それだけで可能性はうんと上がる』

「私を調べるってこと?」

『なぁに、痛いことも怖いこともない。ちょっとした検査程度のものじゃからの』

「……検査とか言って解剖とかそういうオチじゃないでしょうね」

『せんが? お嬢さんちょっと研究者に偏見はいっとらんか?』

「いや、最近似たようなことがあったからさ。つい」


 そう言いながら、チカは遠い目をしていた。思い出すのは印象最悪な白衣たちの「実験」「解剖」だ。思えばこの世界に来てから研究者らしい研究者にはあいつら以外会ったことがなかった。


 あの白衣たちと出会ったのはつい最近のはずなのに、懐かしいように感じるのはここに来てから起きたことが多すぎるせいかもしれない。


『もちろん、お嬢さんが良ければじゃが』

「え? ああ、私はテルタニスをボコボコに出来るなら喜んで――」


 チカは嬉々として返事をしようとする。が、そこで口が止まった。いきなり黙ってしまったチカを前にジュリアスは首を傾げ、ギルが小さく「ご主人様?」と言う。

 静まり返ってしまった室内で、初めに声を上げたのはジュリアスだった。不思議そうな声色で、口をつぐんでしまったチカに尋ねる。


『どうしたんじゃ? 急に黙り込んで』

「あ、いや、その」

『……何か思うところでもあるのかの。テルタニスに情でも沸いたか?』

「そんなことは絶対無いし、やれるなら今すぐにだってべっこんべっこんにへこませてやりたいけど、でも」


 そうだ。出来ることならすぐにだってチカはあのムカつくAIをボコボコにしたかった。この世界に来ることになった原因で、あの塔から落ちて散々な苦労をすることになった諸悪の根源で、ふざけたことを淡々と言ってのける、神気取りでふんぞり返っているAIを。


 ジュリアスの言葉は願ってもない提案だ。あのテルタニスに一矢報いるチャンスだ。

 それなのに、チカはすぐに答えを言うことができなかった。


「ね、ねえ。楽園の塔ごと吹き飛ばしたらさ、きっとそこにあるのも全部なくなっちゃうんだよね」

『そうなるな。ああ、人的被害を心配しとるのか? それなら大丈夫じゃろう。あいつらはプライドばかりはあの塔の如く高いが基本は小心者じゃからの。ちょいと脅せばすぐに塔の緊急シェルターに逃げ込むじゃろうて』

「それも気にはなってたんだけど、でも」


 チカの頭をよぎるのは、ダグとシャノン、ふたりの顔だった。

 もし塔ごと吹き飛ばしたら、彼らの取り戻したい大事なものも無くなってしまうのではないか。

 思考を鈍らせるその考えを優しく払うように、甘い声がチカの耳を焼いた。

 そんな約束を、と。


 別に守らなくてもいいのだ。彼らはチカと血を分けた家族でもなく、親友でもない。恩人でもなければ恋人でもない。ただのこの世界に来てから初めて見た、人間らしい人間で、他人だった。

 助けるどころか脅されて、弱いところにつけ込んで尋問まがいのことをされて。運ばれた場所は埃まみれでおまけにシャワーまでないときている。


 だから別に律義に約束を守らなくてもいいじゃないか、と浮かんできた甘やかな言葉がチカの脳を痺れさせる。


 これまで散々戦って、助けてきた。ならもういいじゃないか。宿代分の恩は返した。それなら自分を優先して何が悪い。人間どんな時だって、一番大切なのは自分だけなのだ。現にダグたちはここに来なかった。自分が大事だから、守った。


 だからいいじゃないか。首を縦に振って、ジュリアスの提案に乗って、テルタニスを心ゆくまでボコボコにして。あの天を裂く塔が壊れる様はきっと愉快に違いない。


 いくつも浮かんだ甘い言葉たちが、頭の中でぱちぱちと弾ける。流されてしまえばきっとそれは酷く楽で、そして最短で最善の形でチカの望みを叶えてくれるのだろう。


「でも、大事な物があるの。あの塔に」


 けれど、チカの中にそれは嫌だと頑なに首を振り続ける自身がいた。彼らの大事なものを壊したくないと騒ぐ己がいた。

 取り戻したいものがあると目に仄暗い光を湛えたダグと、ぐったりと死んだように動かないシャノンの姿。頭を下げた黒い髪。今にも泣きだしそうに見えた不健康な男の顔と、それをまるで母のように、姉のように守る美しいプラチナブロンド。


 思い出す声が、姿が、表情が。春の泥のような暖かな甘いぬかるみの中からチカを引きずり出す。それはちっとも優しくなく、まるで吹き付ける雪混じりの風のような激しさで、けれどぼやけていたチカの意志をはっきりと浮かび上がらせた。


「言ったんだ。協力するって。だから」


 裏切るだとか傷つけるからだとか、その言葉に難しい理屈はない。チカはただ「やりたくない」だけだった。一度決めたことをうやむやにするのは、自分のやり方に反するし、それにそんなことをした後で食べる食事はきっと美味しくない。寝覚めも恐らく最悪だ。


 誰だって自分が一番大切だ。だからチカは自分が自分を嫌いにならない選択を選ぶ。


「だから、ごめん。それを取り戻すまで塔を壊すわけにはいかない」

 

 チカはまっすぐなオレンジの目で迷うことなくピエロを見つめながら、はっきりとそう告げた。

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