第8話 神流みくにはまさに神だったりして (1)

俺は二年S組の教室に入ると先程の神流(かんな)の挨拶を思い出す。ハロチャオー、ハローとチャオの組み合わせか。意味はこんにちは、こんにちは、ってこと? いや、待て。チャオにはさよならという意味もある。ということはこんにちは、さようなら。俺、会った瞬間拒絶されたのか……。

「何か言った?」

神流みくにが覗き込んできた。

「お前、俺のこと嫌いか?」

それを言うと彼女は大袈裟に慌てふためいた。その反応を見て、さっきの挨拶には特に深い意味がなかったことを知る。

二年S組は普通進学コースの教室だ。今は演劇部のために机と椅子が後ろに下げられている。黒板の前には横長の台が置いてあり、教員が後ろの席の生徒もしっかりと監視できるようになっている。演劇部では、その台はステージになる。

部活に所属している生徒はおよそ二十人だ。しかし、その教室にいたのは、神流みくに、そして後輩と思われる男子生徒と女子生徒が一人ずつだけだった。

「さっきはごめんねー。新しい人が来たと思って舞い上がっちゃった」

えへへ、と神流は謝る。

「とりあえず自己紹介をしよっか。私は神流みくにといいます。二年C組です。みーちゃんって呼んでください。女優になって、アカデミー賞を取ることが夢です!」

「アメリカの方か日本の方、どっちだ?」

「え、アカデミー賞ってアメリカにもあるの?」

「そこからか。道のりは長そうだな」

「もう、サンゴくんは意地悪」

「サンゴくんと呼ぶの、やめてくれないかな」

言葉を交わすだけで疲れる。俺はこいつの純粋さを受け止められるほどの、綺麗な心は持っていない。

「俺はサンゴくん、ではなく渡良瀬そらです。A組です。他に特筆することはありません。よろしくお願いします」

「うんうん、帰ってきてくれたね、サンゴくん。それじゃあそこの可愛い子、自己紹介よろしくお願いしますです」

指名された紅は一瞬戸惑いの表情を浮かべる。しかし、さすがはアイドル、すぐにニコニコ笑顔になると元気な声で自己紹介を始める。

「二年A組、阿賀野紅(こう)です。趣味は歌ったり、踊ったりすることです。人前で何かすることが苦手なので、今日はそれを克服するヒントを得たいです」

彼女は黒板に名前を書いて、自己紹介をした。歌ったり踊ったりって、アイドルじゃん。バレたくない割には結構攻めるな。

「歌ったり踊ったりってアイドルみたい。あかちゃん可愛いから、人気になるよ!」

神流みくにはいきなり核心をつく。俺と紅は顔を見合わせてギョッとする。

「あかちゃんってなんだ?」

まさか、こいつ知っているのか?

「紅って『あか』とも読めるでしょ。こうちゃんって目もぱっちり、お肌もツルツルで赤ちゃんみたい。だから、こうよりあかの方がいいかなって」

なんだ、そういうことか。まあ、俺はバレても構わないんだけど。

それから後輩二人も自己紹介をした。名前はそれぞれ天野(あまの)三笠(みかさ)くんと秋乃(あきの)ほのさん。長らく部活に来ていなかったので、二人とも初めましてだ。

「それじゃあ、あかちゃんも見学に来ているし張り切っちゃうよ!」

「あかちゃんって、なんかやだ。みく、み、みーちゃん、他の呼び方考えてよ」

「えええ、かわいい、かわいいよ。絶対あかちゃんがいいって!」

紅(こう)は神流の勢いに押されている。ややこしいな、紅(こう)にあか。それなら――。

「よし、あか。せっかく来たんだ。とりあえずなにか演じてみたら?」

「いや、私は演技じゃなくて人前での立ち振る舞いを学びたいだけで。っておい、あんた、私を『あか』って読んだ?」

「統一した方が楽だろう。これから俺はお前をあかと呼ぶ」

「そんな、絶対にい――」

 そこまで言うと言葉が途切れた。理由は言うまでもない。

「ほら、やっぱりあかちゃんの方がいいって! 今後はそれでいこう。ね、ね」

神流が横からあかに抱きついたのだ。あかは短い悲鳴をあげてよろける。おっとごめん、という感じで神流はあかから離れ、俺の方に顔を向ける。

「あかちゃんと演技していいの?」

「ああ、『ステージ上で自分を演じる』ということをあかに体験してほしいんだ」

「ちょっと、勝手に話を――」

「君はやらなくていいの? サンゴくん」

「ああ、今日のメインはあかだから」

「だから、私の話を――」

「わかった、じゃあ、さっそくやってみよう!」

「私の話を聞けー!」

あかの叫びは、演じられる喜びを目前にした神流には届かなかった。



「竹取物語からかぐや姫の昇天。かぐや姫を神流先輩、おじいさんを阿賀野先輩です。おばあさんは台詞がないので割愛します」

天野くんが声をかける。演じるのは三十秒ほどのシーン。かぐや姫とおじいさん夫婦の別れだ。嘆き悲しむおじいさんに対し、かぐや姫は慰めの言葉をかける。おそらく、ほとんどの日本人は知っているであろう竹取物語の結末だ。

「台本は頭に入りましたか?」

「うん、バッチリ!」

「頭には入った」

あかは今にも帰りたそうな顔をしている。

「付き合ってくれてありがとね、あかちゃん。今度のオーディションで使うシーンなんだ」

「本当はやりたくないよ。でも、やらなきゃいけない流れじゃん。私、素人だから、そこのところよろしくね」

「大丈夫、私も素人だから」

それは違う。確かにデビューをしていないので素人といえば素人。しかし、去年の文化部発表会での演技、あれは素人のレベルを超えていた。俺は改めて黒板前のステージに立つ二人を眺める。外見だけ見れば、二人とも男子の憧れの的という感じだ。

あかは平均的な身長、そして、先ほど神流が言っていたようにぱっちりとした目と美しい白い肌を持っている。髪はそんなに長くないが後ろで小さく縛っている。かわいいお人形さんという感じ。

一方神流は、身長はあかと同じくらい。おそらく世界で一番ショートカットが似合っている。つぶらな瞳に軽く焼けた肌。演劇部というより運動部という印象。わんぱく少女という感じでやっぱりかわいい。うん、かわいいな。

「それじゃあ、いきます。本番五秒前」

秋乃さんがカウントを始める。

「四」

あかも神流も緊張の様子はない。

「三」

二人の表情に変化なし。

「二」

カウントの声が消え、指だけで秒数を示している。あかに少し緊張が見られるが、神流は余裕そうに笑っている。

「一」

あか、緊張。神流は未だにカウント前のゆるい雰囲気のままだ。

「ゼロ」

あれ?

ここは二年S組の教室、だよな? 一瞬それを疑ってしまった。

神流を中心に後ろの黒板が歪んで見える。大袈裟ではなく、ここがどこか別の場所に感じる。息を吸えない。吸ってしまったらこの不思議な世界に取り残されてしまう気がした。

「スゥー」

はっきりと神流が息を吸うのが聞こえる、いや、見える。なんだ、何が起きているんだ。

また黒板が歪む。風の音、鳥の声が聞こえる。しかし、さっきまで聞こえていた部活中の生徒の掛け声は聞こえない。おかしい。ここは平安時代だ、唐突にそんな意識に陥る。

「わたしも本当は帰りたくないのです。とてもつらい思いで帰っていくのです。ですから、私が昇天するときだけでも笑顔で見送ってください」

その声は神流のものではない。ああ、そこにいるのはかぐや姫だ。なんの疑いもなくそう信じてしまう。

「い、いったいなぜ、こんな悲しいのに見送りするのですか。このわしをどういうつもりで見捨てるのですか。どうか、一緒に連れていってくだされ」

だめだ、あかは外側にいる。この世界の全てから彼女は浮いてしまっている。しかし、かぐや姫が悲しみの表情を浮かべながら瞳を閉じたとき、浮いた彼女も平安時代に引き込まれた。あれ、飲まれた?

かぐや姫はじいさんの言葉を聞き、たいそう心が乱れているようだ。

「それでは、手紙を書き置いて行くことにします。わたくしを恋しく思い出すときは、この手紙を取り出してご覧になってください」

そう言うとかぐや姫は懐から紙と筆を取り出す。

「わたしが地上に生まれたなら、死ぬまで二人のそばにいたかった。しかし、期限がすぎてお別れすることになりました。とても残念です。どうか、月の出た夜は、そちらからわたしのいる月をご覧になってください」

そう手紙にしたためてかぐや姫は空を見上げた。手紙とその仕草からは、揺らぐことない帰国の意思と、すでに心が月の国にあることが見て取れる。

絶望だ。なんてことだろう。

「カット」

はあ、はあ。俺はどうやら呼吸を忘れていたらしい。

二年S組の教室は元に戻っていた。かぐや姫は消え、手に持っていたはずの手紙もない。

「じゃあ、トイレ行ってくるね」

間違いない、そこにいるのは神流みくにだ。

「わ、私もちょっと行ってくる」

神流とあかは二人並んで教室から出て行った。俺はしばらく放心状態だった。

「どうでしたか、先輩?」

天野くんの声で、ようやく地面に足がついた。

「去年と比べものにならない。あんな感覚に陥ったのは初めてだ。なんというか、彼女の世界に巻き込まれたというか」

「ええ、僕たちも最初見たときはびっくりしました。まして、一緒に演技するなんてありえません。神流先輩の前で、台詞を言えるようになったのは最近のことです」

「そうだったのか、じゃあ、台詞を言えただけあかはすごいということか」

秋乃さんが後ろから椅子を持ってきてくれた。俺はそこにへなへなと座る。

「あんな逸材、なんでこんなちっぽけな演劇部にいるんだ? 冗談抜きでアカデミー賞レベルの演技力あると思うけど」

そう言うと秋乃さんが少し悲しい表情をした。

「アカデミー賞レベルだからオーディションに受からないんです。ご覧の通り、神流先輩は圧倒的な存在感があるので脇役にはなれません。主演をやるにしてもあまりに演技がうますぎるんです。先輩が世に放たれたら、女優業界の勢力図は一変します。そんなこと、オーディションを開催するような大手事務所は受け入れられないでしょう」

「ひどい話だな」

「秋乃はそう言いますけどね、僕は違った意見を持っています」

天野君が横から口を挟む。

「というのは?」

「オーディションに受からないのは神流先輩の演技が危険すぎるからだと思います。専門的な話をすれば、先輩の演技はメソッド演技と呼ばれるものです。それは、自分の実体験や想像をもとに役に憑依するんです」

「でも、演技ってそういうもんじゃないの?」

「役作りは大切です。しかし、やりすぎると危険です。本格的に女優になれば、『痛み』や『死』を演じることも増えるでしょう。それが、役としてではなく、実体験として先輩の心に刻まれてしまうんです」

そんなことがあるのか。役者も大変だな。

天野くんと秋乃さんはお互いの意見をめぐって言い争っている。しかし、どちらかが正しいというわけではなくどちらも正しいのだろう。結局、アイドル活動に関するヒントは得られなかったな、とぼんやり思った。

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