第7話 そのアイドルはかなり重症だったりして(5)

廊下を進んでいると女子トイレから紅が出てきた。彼女の目は真っ赤に腫れており、トイレの中で泣いていたことがよくわかった。

「なによ、これはアレルギーよ。そんな視線を向けないでくれる」

「ああ、そうかそうか」

 気まずい時間が流れる。

「その」「あの」

 ああ、被った。また沈黙。そして紅が口を開く。

「嘘よ、泣いたわ。別にいいでしょ、憧れの人にいきなりあんなことを言われたんだから」

 そうなんだ、って――。

「あ、憧れ?」

「ええ、そうよ。彼女、四万十さん。クラスは違うけど体育とか選択授業では一緒なの。向こうは全然気づいてなかったけどね。まさに高嶺の花。他人に振り回されず、自分だけの世界に生きる、そういう彼女が憧れだったわ。それなのに――」

「知りたくない本性を知ってしまったと。俺もまさかこんな風になるとは予想できなかった」

そう言うと彼女がキッとこちらを睨みつけた。

「あんたのせいよ。全部あんたが悪いんじゃない。来てほしくもないライブに来て、なってほしくもないマネージャーになって、その挙句見たくもない憧れの人の本性を見させられて……」

そこまで言うと彼女は床に崩れ落ちた。そして、廊下の真ん中でうずくまって泣きだす。何人かの生徒が俺に冷たい視線を向け通り過ぎてゆく。

俺はこういう時、どういう言葉をかければいいのかわからない。まともに人と関わったことがないので当たり前だ。結局はさっきの四万十と同じ。優しい嘘なんてつけないからありのままの真実を言うしかない。

「俺はどうすればいいかわからないんだ。だからすぐに人を頼ろうとした。結局は断られたけどな。そんな無責任な状態でマネージャーを引き受けたことは謝罪する。でも、俺はプロ転売ヤーなんだ。だから、お前を――」

「いい加減にして! 土曜日言っていたこと、覚えているわ。あんたがその業界では知られた人物だってことも、私のCDを間違って買って転売しようとしていることも、そのために特別マネージャーを引き受けたことも。私ね、CDがいっぱい売れたって聞いて不安だった。でも、嬉しかった。それなのに、こんな、こんな……。いいじゃない、あんたの名声を使えばこんな無名アイドルのCDでも軽く転売できるでしょ。もう、変な意地を張らずにそれでいいじゃない!」

はあ、はあ、と彼女の荒々しい呼吸音だけが聞こえてくる。俺は彼女から視線を逸らし窓の方に歩み寄る。そして、真実を彼女に打ち明ける。

「ああ、俺はお前のCDをなるべく高値で転売したい、その助けになると思って特別マネージャーを引き受けた」

「だったら――」

「でも、それだけじゃないんだ。あのライブ、成功ではなかった。でも、お前の努力はしっかりと観客に届いた。お前とは話したこともなかったけど、クラスメイトとして誇らしかった」

「そうなの?」

俺は窓の方を向いているので彼女の表情はわからない。しかし、その声から、彼女の気持ちに若干の変化が起きたことがわかった。俺は続ける。

「俺はプロ転売ヤーとして誇りを持って仕事をしてきた。でも、逆に言えばそれしかないんだ。他人が作った物を買い、それを売る。俺はただデータとにらめっこするだけ。でも、それでいいのかなって。最近はフリマアプリが増え転売もしやすくなった。同時に、自分で作った物を、そういうアプリを通して他人に売れるようになった。自分で作った商品を他人が評価してくれる場所が増えたんだ」

「話が長いんですけど。さっさと結論を述べてくれない?」

どうやら、元の紅に戻ったらしい。俺は振り返って彼女を真っ直ぐに見つめる。

「つまり、俺も自分の手でなにかを作ってみたいと思ったんだ。誰かが作った商品じゃなくて自分で作った商品。プロ転売ヤーとして次のステップに進むためには、買う側だけでなく、作る側のことも知る必要があると思ったんだ」

「そんな時に出会ったのが私だったのね」

「ああ、そうだ。自分勝手なのはわかっている。でも、お前を見た時に、俺がこの未完の商品を完成させたいと強く思った。そして、それを他人が評価してくれるか試したいと思った」

「本当に自分勝手。最低」

最低という言葉を使っているがそれは文字通りの意味ではない。現に彼女は笑っている。

「そうだな、だからお前も自分勝手で構わない。誰かじゃなくて自分のためだけにアイドルをすればいい」

「ちゃっかりプロデュースですか。それに、アイドルってみんなのために歌って踊るのが仕事でしょ? それなのに真逆のことを言うのね。それで売れるのかしら?」

おお、なんかいい感じだ。

「もちろん、俺を信じろ!」

「いや、それはまだ無理よ」

あ、無理なのね。うん? 

「まだ?」

「そうよ。あんた、勢いで自分がぼっちだってことを忘れているでしょ。マネージャーは社交的な場に出るのも仕事なの。色々な人と関わるのよ? ぼっちにそれが務まるとは思わないわ。でも、あの頑固な二人を説得するのも面倒。とりあえず一ヶ月あげる。一ヶ月で目に見える成果をあげたなら正式にマネージャーとして認めてあげるわ。まあ、無理だと思うけど」

「無理じゃない。ちゃんと証明する」

互いに向かい合って沈黙する。しかし、その沈黙は気まずいものではなく、むしろ心地いい。「じゃあ、さっそく行くか」

「行くってどこに?」

「部活だ」

彼女が固まる。

「冗談言っているの? あんた部活に入っていたの?」

「一応な。幽霊部員だが」

「意外だわ。それで、何部? アイドルと関係あるの?」

「演劇部だ。人前での演技や立ち振る舞いはアイドルとも通じる部分がある、はずだ」

「やっぱり頼りないわね」

「こっちも新人なんだ」

ぎこちない二つの影が長い廊下を進んでいく。

「……あの時、鮫元さんに反論してくれてありがとう」

「え、鮫元さんがなんだって」

「なんでもないわ」

 


演劇部の活動場所は第二校舎四階の2年S組。三階から四階に上がる階段の踊り場で阿賀野紅(こう)は息切れを起こしている。

「あ、あ、あんた、はぁ。意外と、はぁ、体力あるのね」

「いや、お前がなさすぎるんだよ。それに、転売ヤーは足を使う場面も多いから最低限のトレーニングはしている」

おいおい、本当によくこんな状態でステージに立たせたものだ。なんとか四階まで上がるとまた休憩。そこで呼吸を整えながら紅は質問してきた。

「ふう、落ち着いてきたわ。それにしても、なんでよりにもよって演劇部なのよ? あんたと一番かけ離れているじゃない」

「楽だからだ。ほら、三年間部活を続けると入試の時に推薦をもらいやすくなるのは知っているだろ?」

彼女はぽかーんとしている。  

「あ、知らないか。まあ、そうなんだよ。それで、楽に続けられる部活がないかと考えていた時に演劇部を見つけたんだ。普段は幽霊でも、年に一度、校内で行われる文化部発表会に出れば活動として認めてくれる。実際に演劇部に所属するのはそういう人たちがほとんどで、真面目にやっているのは数人らしいぞ」

「でも、文化部発表会には出るんでしょ? 去年は確か浦島太郎をやっていたわよね? あんた、出演していた?」

「お前、俺のサンゴBの名演技を忘れたのか? 誰よりもしなやかに揺れていたぞ」     

彼女は何も言わなかった。しかし、その視線は四万十と似て冷たかった。

「とにかく、これから会うやつはお前も知っているはずだ。去年の浦島太郎で、乙姫役を演じた――」

「神流みくに、でしょ。知っているわよ。あの演技は学校中を席巻したから」

そう言うと、彼女は不満げに話を続ける。

「あんた、忘れてない? 私、アイドル活動について誰にも話してないし、話したくないって。四万十さんならともかく、神流さんはダメよ」

「最初から明かす必要はない。お前が言いたくなれば言えばいい」

「そんなこと、あるわけ――」

「あ!」

叫び声がして、俺と紅が同時にビクッとした。叫び声の主は、廊下のはるか後方にいるようだが声がよく通る。バタバタと、一人のショートカットの女子生徒が俺たちに駆け寄ってくる。俺の手前で立ち止まると、その通る声で挨拶をする。

「ハロチャオー、サンゴくん。トトちゃんから話は聞いているよ。演技を極めたいんだって? もちろん、私と一緒ならできるよ!」

「え、ああ、それなんだが――」

「あー!」

今度は、その女子生徒が紅の肩を思いっきり掴んだ。

「君、新入部員? ようこそ、歓迎するよ。一緒にアカデミー賞を目指そう!」

「え、うん、まあ」

紅が押されている。去年の五月にやった文化部発表会以来だから約一年振り。一年経っても神流みくには何も変わっていないようだった。

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