6
一先ず、この場を離れることになった。
男の自己紹介も置いておいて、ワームの死骸から距離を取る。体液の匂いは、周囲の動物をおびき寄せてしまうからだ。
変に肉食性の動物と鉢合わせても面倒でしかない。
そこまでの道筋、レンは自分たちの足跡ばかりを気にする。黒い体液が足裏にべったり付いたことで、スタンプのように足跡が続いていた。
ワームの死骸が見えなくなった辺りで腰を据えた。
レンとシウロン、そしてもう一人。ワームに襲われていた男も一緒だ。
「もう一度言わせてくれ。助かった」
男はワームの血液を拭き終わる。そのとき着ていた服は、綺麗な黒に染まってしまったため、今は予備の服を着用している。
「自己紹介をさせてくれ。僕はテナル・マシュアという。ハフィス領地で税関にいる」
「税関とはまた……」
レンでは税関という言葉の意味が理解できない。蚊帳の外ではつまらないので質問すると、理解しやすい言葉で返ってきた。
レンは目を見開いて頷く。
なるほど。つまりハフィス領地という場所も国境付近にあるということか。
「なぜそのような文官がこの森に?」
「訳あって、龍の口が必要なんだ」
龍の口。それは植物の名前だ。牙のように鋭い棘を持ちながら、大きく口を開く肉食性の植物を指す。
真珠の森にしか存在しない固有の植物で、数が少なく、すぐに枯れてしまうため安定して見つけることができない、珍しい植物らしい。
発見は運に依るところが多くなることから、幸運の象徴でもあるとか。
その龍の口は様々な面を持っている。一つが宝石としての価値だ。
大きく開く口の奥には、消化液が溜まっていることがある。それを取り出し凝固させると、龍血結晶と呼ばれる真紅の綺麗な石に変わるそうだ。
珍しい宝石と比べたら安いものの、この石にも値段がつく。しかし必ずしも高価なわけではない。
龍の口は肉食性であり、見つけたそのとき、丁度食事中だったということも少なくない。
それに気づかず結晶化させてしまうと、石の中に虫の足が入っていたり、変な濁りがある等の問題が生じる。要するに、龍血結晶には当たり外れがあるのだ。
龍の口は幸運の象徴。そこから取れる龍血結晶も幸運を表す。
赤という色も相まって、これをあしらった装飾品は、大切な人への贈り物として需要が高い。
ここで問題になってくるのは、石の当たり外れだ。思いを伝えるための石に、虫の死骸が混じっていたら興が醒める。
故に、純度が高く透き通った龍血結晶の価値は、顎が外れるほど高額だ。一攫千金を狙うなら悪くない。
逆に言えば貯金が足りなければ自分で用意するしかない悪魔の石でもある。
「まさかとは思いますが、恋人か誰かにアクセサリーを送るためですか?」
シウロンが呆れた理由は、それによって命を落とす人がまま居るからだ。
しかしテナルは否定する。
「そんな目的だったら、首が回らない冒険者にでも依頼するよ。お金には困ってないからね」
「では、なぜ?」
「君たちはハフィス領地の現状を知っているかい?」
行ったことも見たこともない土地だ。知るわけがない。
シウロンはどうだろう。レンが見上げたその顔は明瞭とは言えない。どうやらシウロンも把握していないようだ。
テナルは了承して説明を始める。
「かつてない問題が発生してるんだ。歌狂病が流行している」
歌狂病と聞いた途端、シウロンの目が開かれた。
「あれが流行? ありえません」
「普通ならそうだ。でも起きてる」
「それで龍の口ですか」
「そうなんだ」
レンを挟んで二人だけでの会話が続く。退屈とはまさにこのことで、レンは唇をわなわなと震わせた。
耐えられず、声を張り上げる。
「ねぇ、歌狂病ってなに?」
その声は無事届く。テナルは口を噤んで、シウロンに任せた。
「簡単に説明すると、魔素中毒の一種です。薬があればすぐに治りますが、放置をすれば死に至りかねない病です。ここ真珠の森には特殊な魔素が満ちていると説明しましたね」
「うん。ここで使う魔術は強くなるんだよね」
「つまり一般的な魔素とは性質が異なります。その違いが人の体に異常を生じさせるのです」
「でも、俺はなんともないけど」
「罹患する確率は、百分の一にも満たないほど僅かです。その上、魔素について理解があれば、その確率は更に下がり事実上ゼロまで落ちます。しかし完全なゼロではありません」
レンは森の中を漂う魔素を目で追った。すぐにシウロンのきつい視線に気づき、目を伏せる。
「北から風が吹くこの季節になると、魔素が風に乗り、南側にあるハフィス領地へと流れます。そのときに年に数人程度ですが、罹るんですよ」
「だけどな、今年は例年の百倍を超えてる。薬が圧倒的に足りてないんだ」
龍の口、それを見つけるとどうしても龍血結晶に注目してしまうが、他にも見るべきところがある。
それは房に成る黄色い実だ。これが歌狂病の薬になる。
「果肉を使うんだ。使い方によっては逆効果なんだけど、上手く使えば特殊な魔素を濾過してくれる」
歌狂病が蔓延し薬が不足したから、その材料が必要になった。
テナルが真珠の森にいるわけを理解できて、レンは朗らかに頷く。テナルも理解を得たことで胸をなでおろす。
しかしたった一人、まだ納得できていない者がいる。
シウロンが息を吐いた。
「では話を戻しましょう。なぜあなたがこの森に?」
意図してかはわからないが、シウロンの口調は速かった。
「だから龍の口目的だって」
「罹患者が百倍は何らかの策謀を疑うほどに多い。真実であれば領地全体が動いているはずです。もちろん薬の素材採取にも力を入れる。最前線で戦う者たちと比べ、明らかに実力が劣るあなたが森に入る理由にはなりません。材料採取を目的としたチームが組まれ、それが動いているはずです」
「あぁ」とテナルが小さく漏らした。目元に影が落ちる。
「そのとおりだよ」
テナルはどさりと荷物を落とす。荷物はゆっくり倒れ、中から丸まったシャツが零れた。
「実は、大事な人にアクセサリーを送るって話、あれ半分正解なんだよ」
強がりの笑み。子どもであるレンから見ても痛々しかった。きっと心が潰れてしまうほど苦しい思いを抱えている。
他人事なのに、レンも胸に重さを感じた。
「僕の幼なじみが歌狂病なんだ。毎日苦しんでいて、今は痛み止めでなんとかしている状態だ。治って欲しい。でも薬がない。材料の採取がうまくいって、新しく薬が生産されても、それがあいつに回されるのはずっと先だ。だから僕が自分で用意するしかない」
「困窮した状態であれば、龍の口が市場に出回ることはないでしょう。だから自分で探して採ると?」
「そういうことだよ」
聞いてみると、ハフィス領地の現状が少しだけ見えてくる。
真珠の森は広い。縦断であれ横断であれ、通り抜けようとすればそれなりの日数が必要になる。
今レンたちがいる場所は、ハフィス領地のほとんど反対側になるらしい。テナルは進めるだけ進んでここまで出てきたのだとか。
理由は単純で、ハフィス領地に近い場所は既に漁り尽くされているからだ。龍の口を見つけても、そのほとんどが既に実を回収されている。
だからなるべく遠くまで手を伸ばす必要があった。
シウロンはレンに目を落とす。レンは「どうしたい?」と問いかけられているのだと、瞬時に察した。
答えは決まっている。ニヤリとほくそ笑んでやった。
シウロンは肩をすくめる。
「乗りかかった船です。仕方がありません。付き合うとしましょう」
テナルの顔が全体的に赤らむ。人は喜びに耐えられなくなるとこうなるのか。レンは関心しながら、テナルの潤んだ目元を眺めた。
溢れる感情に触発されて、こそばゆくなり体を攀じる。
善人になるのは悪くない、かぁ。
兵士を目指していたが、恩の押し売り業者も悪くないかもしれない。
テナルは鼻を擦ってから、ペコリと頭を垂れる。
「この恩は忘れません」
「私は忘れるかもしれません」
「これであいつの――僕の幼なじみが助かったら、あなた方に一生尽くすと誓います」
「そうですか。では願いを一つ。重く捉えられると面倒です。恩を感じないでください。我々の行程に計画書がないだけの話ですから。変な距離感を作られると、この子も勘違いをする」
「いや、それは――。わかった」
こうして真珠の森で、龍の口と呼ばれる植物を探す旅が始まった。
といっても、特別な旅路にはならない。龍の口は地表部で育つからだ。今まで通り、森の中を散策するだけだ。
しかし全く変化がないわけでもなかった。
制限時間の追加。
テナルの幼なじみは病に侵されている。命が保つまでにハフィス領地へ急がなければいけない。
急ぐ上で、子どもの足は厄介極まりない。歩幅の関係上、どうしても大人よりも足取りが遅れる。
そこでレンに求められたのが、小走りだった。常に跳ぶように動く。
走り続けることは慣れている。しかし日中ずっととなると話は別だ。初めは良くてもすぐに息が上がってしまう。
だからといって、足を止めるわけにもいかない。
レンは額の汗を拭った。
辛いのは体力だけで、他の面へ目を向ければむしろ喜ばしいまである。体力を付けられるし、息が上がれば無意識的に魔素を取り込める。それに――。
「レン、これを」
疲労回復用に、シウロンが薬をくれるようになった。霊薬と呼ばれるものらしい。
キューブ状の丸薬で、齧ると果物のような甘い香りが広がる。正直、美味しかった。クッキーよりも好きかもしれない。
これを食べることで魔術的に体力の回復を図れる。実際、食べる前と後では疲労感が全く違った。
一日中走り続けても余裕がある。シウロンの霊薬が続くまでだが、まだまだ備蓄はあるらしい。
レンに関して「いざとなったら抱えてやる」とテナルが意気込んでいたが、厄介になるのはもう少し先になりそうだ。
三人で行動することで、テナルは周囲への警戒をする必要がなくなった。危険な動物が現れても、シウロンが簡単にのしてしまう。その結果、一日で進める距離が伸びた。
それでも日が落ちれば止まらざるをえない。光が失われ視界が悪くなれば、周囲すら見通せなくなる。すぐ側に龍の口があっても見落とす可能性があった。
それに何より、睡眠は必要だ。レンの肉体的疲労に関しては霊薬で解決できるが、精神疲労は無視できない。これはテナルも同じだった。
テナルは食事を終えるとすぐに床についた。翌日、より効率的に探索するため、休めるうちに休まなければいけない。
喩え命の恩人に対する無礼になっても、幼なじみの命が掛かっている以上は譲れない。
レンは霊薬で体力を回復している関係上、いつもの夜と比べると目が冴えていた。
結果、焚き火の周りにはシウロンとレンだけが残る。
焚き火がパチパチと爆ぜる。不思議とこの森には枯れ枝がない。水分を含んだ枝を焚べた結果、いつもより焚き火は賑やかだった。
テナルが入ったテントから寝息が聞こえてくる。
レンも早く寝なければと考えながら、体内の魔素に語りかけていた。魔術を使うために必要な魔素の操作。まずは左手まで魔素を移動させたい。
手応えは感じていた。今日に入って痺れるような感覚が指先に残る。
精神を集中させて息を整え、焦らずゆっくりと、一度に動かす量は少なく、その上で確実に――。指先が火照った。
「できた」
目を開けると、左手の人差し指から、蒸気のように魔素が立ち上っている。
一度できれば二度目は簡単だった。体内の魔素がどんどん人差し指から漏れていく。
前へ進んだ。その確信が、たまらなく楽しい。
顔を上げた先のシウロンは、関心がなさそうに焚き火を見つめている。しかしいつもの無表情とは違い、口元が綻んでいた。
「ありがとう」
祝われてもいないのに、レンはお礼を告げる。直ぐ側で寝ているテナルがいるので、声は抑え気味にした。
「ところで……」
シウロンはテナルが眠るテントに目をやった。
真珠の森は、足元が岩のように硬いので、テントは錘で張っている。
「人を助けたいと思った、その思いは生来のものですか?」
「多分、そうだと思うけど、どういうこと?」
「昔の友人も同じように私を苛つかせたものですから。懐かしい思いに浸れたというだけです」
「よくわからないんだけど」
「そうですね。レンは間違いなくレンです。いつか私たちの友人について話をしましょう」
「それよりさ、魔素を操れたんだよ。褒めてよ」
人差し指から上る魔素を見せつけた。
レンからすれば大きな一歩だが、まだ初歩の初歩である事実は変わらない。
シウロンは呆れたようにため息の後に立ち上がると、レンの横まで移動する。
威圧するように見下され、レンは恐る恐る見上げた。
「本来であれば、局所的ではなく、全身で魔素を操れるようになるまで待つべきですが」
シウロンは指先をレンの額に押し当てる。
「身体能力を向上させる魔術を簡単にですが、教えましょう」
瞬間――レンの全身が熱を帯びた。
「魔術の教練は、基本的に知識を継承させる形で行われます。魔素の動かし方を文字や言葉で伝え、理解させる方法です。難しく言うことでもないですね。言葉で教え、やって見せ、挑戦させる。しかし邪道とも言うべき、もう一つの伝え方があります」
その邪道を行っているのだと、レンは理解する。
全身から溢れる熱。暑いとも寒いとも感じない。汗も流れない熱の正体は何か。
レンは両手をぐっと握りしめる。指と手の平に残った感覚は、ずっと長く残り続けた。
直ぐ側にある白い木を見上げる。今、直上にジャンプしたら、どこまで届くのだろう。
試してみたい思いに支配されるが、立ち上がろうとしてもシウロンの手が邪魔をする。
「今は集中をするべき時です。座って意識を内へと向け、魔素の動きを覚えなさい。それが、身体能力を向上させる魔術です」
言われた通りに目を閉じた。体の中で蠢く、その熱を見つめる。
同じような動きが延々とループしている。後ろからその動きを追い続けた。一つの法則性を見つけ出すまで。
レンは目を開けると、焚き火に差し込まれた枝を一本抜き取った。燃えているそれを強く振って火を消して、地面へと突き立てる。
目的は絵を描くことだ。
足元は岩のように硬い。枝なんかで絵を描けるわけがない。それでも枝を走らせた。カリカリと音を立てながら、少しずつ枝が削れていく。
納得できるところで枝を引き上げた。出来上がる図形。絵は残っていないが、枝が通った軌跡は覚えている。
身体能力の強化に必要な、魔素の動きを二次元的に表現した。満足して鼻から肺の全てを吐き出す。
顔を上げた先にいるシウロンは、小さく頷いた。
俺の体の半分は、旧文明の遺産でできている。 早送り @fast_forward
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