5

 くすりと誰かが笑った。すぐにその声は押し込められたが、レンは確かに耳にした。


 ここにはレンとシウロンの二人しかいない。レンは笑っていない。そうなると、笑ったのは誰か、自動的に決まってくる。


 この人も声に出して笑うことがあるんだ。


 レンは見えなかった裏面を見つけて、物珍しさから顔を上げる。

 そこにいたシウロンは、いつもと変わらず無表情だった。


「しかし前者は悪くありませんよ。実際に擬似空間に隠れることを盾とする魔術師もいます。及第点にも至っていませんが、幼い故の特権ということで、まあいいでしょう。今回は私が折れるとします」

「じゃあ!」

「あの村から連れ出した以上、わがままに付き合うのも私の役目ですからね。命令が行き交う関係性は望んでいませんし、レンに我慢をさせすぎればナシュレイ組合の面々にも叱られてしまいます」


 シウロンの相好は変わらない真顔だ。しかし声色が柔らかい。

 力を貸してもらえる。レンの肩は荷が下りたように軽くなった。


「少し意地悪が過ぎましたね。謝ります」


 さて、とシウロンは遠くを見る。視線を送った先は、今この森で最も騒がしい場所。ワームがうねる地点だった。


「速度から計算すると、逃げているのは魔術が使える一般人。身体能力を強化により速度を上げつつ、適度に振り向き反撃をしているが効果が薄いといったところでしょうか。森の外までは保ちそうにありません。しかし余力は十分で、今すぐにやられることはなさそうです」


 レンは凛々しい横顔に惹かれた。無駄のない速やかな分析。きっとワームが地表に出てすぐに答えを出せていたのだろう。だから言い合う余裕があるとわかっていた。


「ところで、レンは流血に耐性がありますか? 例えば動物の解体に吐き気を催してしまうとか」

「ないと思うけど」

「ならば問題ありませんが、これから一つ嫌がらせをするので、頑張って耐えてみてください」


 なにやら恐ろしい宣言を聞いた気がする。レンは明らかな作り笑いをするシウロンに、幾ばくの警戒心を持った。

 シウロンから掴むよう手を差し出されているが、レンの手は震えてなかなか伸びない。


 シウロンの手と顔を、瞬きの度、交互に見張った。


 状況的には遊んでいられる時間は長くない。ワームは今も森を壊している。その思いが後押しする形で、レンの手がシウロンの元へと届く。


 これから何をされるのだろう。シウロンの企みは、レンの想像できない場所にある。


「驚いて声を上げないように」


 無理かもしれないと、心の中で言い返した。

 その瞬間、景色が移り変わる。


 周囲には白い木々。ここは真珠の森である。それは変わらない。

 変わったところは、見上げるほどに巨大な生物が、直ぐ側まで迫っていることだ。


 空間移動の魔術。それによりワームの正面へ飛び出していた。


「これがワーム?」


 見た目はミミズとそっくりだった。大きさ以外はよく似ている。

 高さは十メートルほど。長さに関しては見通せないためわからない。ただ只管に長いことだけはわかる。


 驚くなとは、こういうことか。


 レンとシウロンが立っている場所は、ワームの直線上だった。このままだと単純な質量で押しつぶされる。


 嫌な汗が背中を伝い、心臓がきゅっと萎むように苦しくなる。これぞまさに絶望だ。


 それなのに……。


 シウロンはワームの巨体が起こす風で髪を靡かせる。温かな太陽、心を洗うそよ風、それらを楽しむように涼しい顔だった。


 嫌らしく微笑むと、目だけでレンを見下ろした。


「先程も伝えましたが、驚かないように」

「えっ?」


 つまりワームに詰められたこの状況は驚くに値しないと?


 ワームがまっすぐ進む。その勢いは止まらない。


 対するシウロンは何もしない。武器を取り出したり、拳を構えることもない。

 しかしレンにだけはわかる。その目で見える。周囲の魔素が渦を描く。


「私は一つ嘘をつきました。何が嘘かわかりますか?」


 急な問いかけに、レンは頭をバグらせた。答えどころか、質問の内容すら理解できない。

 聞き返すという単純な行動にすら意識が回らず、口から「あー」「えー?」と意味をなさない音を発する。


「なぜこの森に入ったのでしょう。真珠の森、ここで起こりうる全ての現象は、私を悩ませるに至らないからです。つまり嘘とは――」


 ワームが直前まで迫ったそのとき、黒い液体が飛び散った。それがワームの体液、ワームの血液だと知るまでに時間は掛からない。


 巨大な頭部が左右に裂ける。まるで凄まじく切れる刃物に突っ込んだように。


 二つに割れた頭は、レンとシウロンを避けるように左右に広がった。レンのすぐ横を、ワームの頭の断面が過ぎていく。


「この程度の相手を前にしたところで、あなたへの守りが薄くなるなどありえません」


 黒い雨が降った。白かった木々や地面が塗られていく。一帯はすぐに黒いインクをぶちまけたような状態に変わった。

 ひたひたと滴る雫が、葉を黒く染める様は絵になる光景だった。


 レンとシウロンには黒い血は一滴も当たらない。まるで透明な傘を差しているかのように、綺麗な白い円ができていた。


 山のように大きな屍。もうワームは動かない。


 レンを挟むように存在するグロテスクな断面は、見る人が見れば異常そのものだった。切り口があまりにも滑らか過ぎる。チーズを切るときですら、こううまくはいかない。


 どんな魔術でワームを斬ったのだろう。

 レンはシウロンの魔術を間近で見ていたが、最後まで理解できなかった。


 魔素の動きは目で追えたが、ワームを切り裂いた刃の正体はわからない。


「あまり考え込まないように。今は見るだけで十分です。いずれは魔素の揺らぎから、放たれる魔術を推測できるようになるでしょう」


 シウロンはそう言うと、「さて」と顔を上げた。レンはその視線を追うように振り向く。

 そこには初対面の男がいた。ワームに尻を齧られかけていた男だ。


 外見的特徴は、判断が難しい。頭の天辺からつま先まで、ワームの血で真っ黒に染まっているからだ。


「そこの。ワームの心臓は私がもらいます。文句はありませんね?」

「……あ、ああ」


 困惑が見て取れた。


「とりあえず、助けてくれたってことでいいんだよな。礼を言いたい」


 男の本心はどこにあるのだろう。礼を言うと口にしながら、その目には疑念を湛えている。感情を隠すことすら忘れている様子から、かなり重度の混乱に見舞われているようだ。


「礼なら私ではなくこの子に。あなたを助けたいと言い出したのはこの子です。私は見捨てるつもりでした」

「そうか」


 男の視線が一段落ちた。そこにはレンがいる。目と目が合って、緊張からレンの肩が跳ねた。


「ありがとう。助かった。結構厳しい状況だったんだ」


 なんてことない普通のお礼。金銭も食料もない、言葉だけというこの世で最も簡単な感謝の表し方だった。


 人によっては「そう思うのならば」と対価を要求するかもしれない。しかしレンには言葉だけでも十分に刺さってしまう。


 はにかむ男を見て、レンの胸が温まる。耐えきれずに顔をそむけた。


「俺は何もしてないから。立ってただけ」


 顔に熱を感じる。それが嬉しさからくるものだとは、今のレンではまだ理解できなかった。

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