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魔術を習う。その事実だけで心が逸るレンにとって、一日通して至極の時だった。
静かに先をゆくシウロンの影を追いながら、風のように流れる魔素に手をかざす。
左手で触れると、魔素の重みが指を押し返す。
しかし右手で触れても空気も魔素も違いがわからなかった。
なぜだろうと首を傾げても、究明するまでには至らない。
左目を閉じながら左手を振り回す。そうやって手の感覚だけで高濃度の魔素を当てられるようになった頃には、日が落ち空は橙色に染まっていた。
「今日はここまでにしましょう」
数時間ぶりに聞いたシウロンの声に、レンは飛び跳ねた。適当な平地を見つけ、そこで腰を下ろす。
いつも通り水を受け取り、食事を終えると、横にテントが張られている。魔術が使われていると知った今でも納得できない現象だ。
方法はなんであれテントを張れば、少しくらい音がして然るべきなのに。
空が橙色から青に変わり、星々が輝き始める。
いつもなら空を楽しみながら、いいところで床に就くのだが、今日だけは違う。
今夜は魔術の練習をすることにした。魔術の練習と言っても魔素と触れ合うくらいだが、前へ進んでいる感覚が楽しい。
「ねぇ、いつになったら魔術を使えるようになるのかな?」
「意識せずとも魔素を感じられるようになれば次の段階へ進めます」
「それっていつ?」
「今日中には難しいようなので、早くとも数日中――」
「もっと早くできないの? 俺はすぐに魔術を使えるようになりたいんだよ」
「無理です。これでも十分すぎるほど早い。納得してください」
「俺だって、シウさんみたいな魔術を使いたいのに」
「それは……。では話をしましょう。魔素と魔術の関係性についての話です」
シウロンは一方的に始める。レンにとっても悪い話題ではないので口よりも耳に意識をやった。
「本来、魔術と魔素は不可逆の関係にあります。魔素は魔術に変換できますが、魔術を魔素に戻すことはできない。では、どのようにして魔素を魔術に変えるのか。それには人の意思や魔素を操作する技術が必要になってきます。――そう訳がわからないという風な顔をしないでください。説明しますから」
シウロンは腰を少し浮かせて前屈みになる。焚き火のすぐ横に指先を向けた。何かをするつもりだと察したレンは、同じように焚き火の横を見下ろす。
息を呑むと同時に、シウロンの手元から魔素が放出された。レンには白い風のようにも見える魔素は地面の砂粒を弾き飛ばし、簡単な菱形模様を描き出す。
「レンが次に向き合うのは、魔素の操作技術です。魔素を動かし、特定の式に組み上げる。これを達成したとき初めて、魔術師と呼べる存在になれます」
レンもシウロンと同じように焚き火の横に指先を向けた。
左手を伸ばし、周囲の魔素を感じ取る。しかし模様は描けない。
「すぐには難しいでしょう。もっと練習をしなければね。時間はたっぷりあります。今日はもう寝なさい」
寝ろと言われても、レンの目は冴えている。
「もっといろいろ聞かせて! もっと魔術を見せてよ」
出会ってまだ数日しか経っていない相手に遠慮なく詰め寄る。
シウロンはまともに取り合わない。水が入った器を慣れたようにレンに渡すと、焚き火へ視線を落とす。
レンはその器を両手で煽る。するとシウロンの魔術によりまた水が注がれるのだ。
水嵩が増す器を見下ろす。器には月の変わりにレンの笑みが写り込んだ。
シウロンは変わらず焚き火を見ている。クールを気取っているようにも見えるが、その実どんなものか。
レンが水を飲む。器に水が注がれる。それが何度か続いた。
器の底で揺蕩う、魔術のノイズを見つめる。
「この魔術、俺もできるようになるかな?」
「それは不可能です。人には向き不向きがある。それは魔術も同じこと。レンにはレンにしかできない魔術があるはずです。それを探しなさい」
「やる前から言うなんて、そんなに難しいの?」
「一般的な空間魔術は、生成した擬似空間を延々と維持し続けたりはしません。しかし倉庫のように使うなら、生成した空間を半永久的に維持し続ける必要がある。比較的容易な空間魔術であれば、いずれ教えましょう。しかしこればかりは諦めてください。レンでは無理です」
「昼間の魔素でいっぱいにする魔術は?」
「あれこそ不可能です。私以外にあれができる魔術師は存在しません」
「シウさんって、誰も使えない魔術が使えるの?」
シウロンは数いる魔術師の中でも特別優れているのではないか。そんな疑惑がレンの関心事になる。
他にはどんな魔術が使えるのだろう。好奇心に支配されていく。
「他に、どんな魔術が使えるの?」
「もう夜遅いですよ。寝なさい」
「眠くないもん。見せてよ」
「いずれ見せるとしても、それは今ではありません」
「お願い。見せてくれたら言う通りにするから」
冷たい視線が注がれる。しかしレンの熱は収まらない。
根比べはレンに分があった。シウロン側にもレンの要望を叶える利があったからだ。
手札を晒す行為は、魔術師にとってはリスクになりうる。
しかしシウロンは己の利害には無頓着だった。
故にため息を漏らす。その瞬間、周囲は夜ではなくなった。
「今回だけですよ」
光が満ちる。それに飲まれて、焚き火やテントが霧のように掻き消えた。
レンはあまりの眩しさに眼前を覆い隠す。器が傾いて水が零れた。
糸のように水が落ちる。裾に染み込み、足首が濡れた。
目を開けると、そこは先程まで居た平原ではなく、狭い一室だった。
正面の壁には観葉植物が吊るされ、後ろの壁には色取り取りの瓶がグラデーションを描きながら棚に整列している。
左を見れば茶色の扉。右には明るい窓がある。
中央には絵の具で汚れたような作業台。椅子はない。
「ここどこ?」
窓辺に寄ると、高台からの絶景が見渡せた。下には小さな集落がある。ぽつぽつと赤や青等の屋根が散らばっていた。
「ここは私の世界です」
擬似空間? 魔術でこの場所を生成しているのだろうか。
シウロンは壁を背に立つ。答え合わせをしたくても、意地悪く微笑むだけだった。
魔術の訓練が始まってから十数日ほど経過した。食料袋が軽くなり、食事の品目にも偏りを感じ始めた頃である。
鳥の囀りが時刻を告げる。日が昇り朝が来た。
レンはテントから這って出る。
「おあよぅ」
欠伸混じりに挨拶を終える。シウロンは座って本に目を落としたまま動かない。ページが捲られる音を聞いて、ただ無視をされただけなのだと気がついた。
レンが石に腰掛けようとすると、そこにいる先客に気がつく。先客とは、濡れタオルと飲水が入った器だ。
いつも通りの朝。まずは濡れタオルで顔を拭く。
次に口内を潤して吐き出して、その後に喉を潤した。
「レン、今日はあなたに伝えなければいけないことがあります」
シウロンはパタンと本を閉じる。
「急にどうしたの?」
「畏まる話ではありません。このまま進むと、今日の昼前には真珠の森という土地にぶつかります。それを伝えておきたかったのです」
「真珠の森ってなに?」
「一言で表すと危険な場所です。多くの人がそこで命を落としています」
「迂回するってこと?」
「それも選択肢の一つです」
選択肢という言葉から察する。シウロンはその森に入ることを想定している。
レンの警戒心は錆びていた。危険だと聞いても実感が湧いてこない。
それどころか森という単語に惹かれる。クルット村にある森はレンの庭同然だった。
「そこに行ってみたい」
「真珠の森をこの方角から突っ切れば町に出ます。そこを目的地としてもいいでしょう。ただし、真珠の森に入るなら一つ約束をしてください。それは、私から離れないことです。いいですか?」
レンは知らない森に期待を膨らませる。動物とは会えるだろうか。成っている木の実は?
朝食を終えて出発する。
いつもはシウロンが先行するところだが、今日だけはレンが前を歩いた。
歩きながらやることは初日から変わっていない。魔素に触れる。それだけだ。
進捗は悪くない。魔素の動き方や濃度を、触覚だけで判別できるまでに成長している。
そして昨晩、ついに次の段階へと移る許可を得た。実際に魔素を操作する段階である。
シウロンによるとこれは異常らしい。天才と呼ばれる人種でも、ここへ至るまでに三ヶ月は掛かるのだとか。
それなのにシウロンは大して驚いていなかった。まるで当然のことのように。
「レン、魔素を目で追ってはいけません」
はっとして目をそらす。
「これで三十七度目です」
「ごめんなさい」
「町に着くまでに癖を直せなければ、その目を包帯で覆います。百まで数が増えなければ良いですね」
シウロンが日に日に厳しくなっていく。少しばかりの息苦しさに肩をすくめた。
歩きながら集中することに慣れたこの頃。レンは大きく息を吸う。
今レンが達成するべきは、魔素の操作である。この段階を通過しなければ魔術は扱えない。
まずは魔素を取り込む。手っ取り早い方法が呼吸だ。魔素は大気中に存在する。空気と一緒に吸い込めば、簡単に魔素を取り込める。
次は体内にある魔素を感じ取ること。体のどの部位に、どれくらいの量があるかを把握する。ここまで終えてようやく、魔素を操作する段階へと移れる。
レンは右利きだ。しかし魔術においては左手が異様に使いやすかった。故に左手に魔素を集中させる。問題はまだこれが出来ないことだ。
吸い込んだ魔素は胸部に集まっている。それを左手に動かす……。動け……。動かない。
体内での魔素の循環。魔術師が当たり前のように行っている技は、レンにはまだ高い壁だった。
「もう少し掛かりそうですね」
楽しそうにするシウロンが恨めしい。
きりきり歯を軋ませながら横目で睨んでやったが、シウロンにはそよ風と変わらなかった。
「コツとかないの?」
「コツと問われても……手――いいえ、心臓を動かすようなものですから」
「魔術を教えてくれるって言ったのにぃ!」
それからも魔素に意識を向け続ける。全力を傾けても遂に、真珠の森に辿り着くまでには進展を得られなかった。
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