第2話 真珠の森
1
村を出てから何日か歩いた。
レンは先を行くシウロンに疑問を持っている。理由をいくつか挙げよう。
ここ数日の間、シウロンは一切食事を摂っていない。そして、ここ数日の間、シウロンが眠る姿を見ていない。
人間であれば食事と睡眠は欠かせないはずだ。
初めて会った森の中、シウロンは朝食を摂っていた。だから食べられないことはないはずだ。
この人は一体何者なのだろう。
「ここで休憩をしましょう」
今日も平和に昼食時が来た。レンは視線を強める。
シウロンの不可思議なところは他にもある。シウロンは全く荷物を持っていない手ぶらだった。それなのに。
「冷たい内にどうぞ」
透き通った美味しい水を出してくれる。
水は重い。何日も補給が必要がないほどの量を持ち運ぶのは大変なはずだ。隠せるわけがない。
レンは白い器を受け取ると、近くにある岩を椅子にしてから、中の水をそのまま飲み干す。
その間にシウロンが昼食を見繕い、レンに手渡した。
夜は枝葉を焚くこともあるが、昼間はそうしない。火を通す必要がないものが昼食として選ばれる。
今日はクラッカーとハムだった。品数は少ないが、味が最高だから言うことがない。
しかし満足できるかと言われれば、そうはいかなかった。
気がつけば、さっき飲み干した器に、なみなみと水が注がれている。この謎を解かない限り、悶々とし続けることだろう。
これは初日の夜の話である。夕食を楽しんでいると、すぐ側らにテントが張られていた。
あれは理解の外側の出来事だった。
気づかぬ間に、テントが展開されていたのだ。
混乱していると、シウロンが火の番をするとその場に残り、レンをテントに押し込んだ。
その夜は眠るまでに時間がかかったが、困惑より眠気が勝ったとき朝が来る。
テントから顔を出すと、シウロンは夜から変わらない姿勢でそこにいた。
寝ぼけている間はシウロンに言われるがまま、水を飲み、濡れタオルで顔と体を拭いて、朝食を始める。
食事を終え、覚醒して瞼をカッと開いたときには既にもう、テントは跡形もなく消失していた。
これが毎日続いている。テントばかりに意識が向きがちだが、何もない平原で濡れタオルが出てくるのもおかしい。
シウロンは荷物を持ち歩いていない。村を出るときにはしっかり背負っていたはずなのに、それもいつの間にか全て消えている。
もはやレンは我慢の限界だった。訊かずにはいられない。
「ねぇ、この水ってどこから出してるの? 何も持ってないじゃん」
数日越しの意を決した問いかけ。シウロンはというと、表情一つ変わらない。
「これは私の魔術の一片です。進んで人には見せませんが、レンには隠すつもりはありませんし、構わないでしょう」
魔術。レンがその言葉に前のめりになったとき、シウロンの左手側、空気中にノイズが走る。
「概念干渉系、その魔術の一種です。見えますか? この先に私だけが接触できる擬似空間を生成し、倉庫として利用しているのです」
説明……だったのだろうか。レンの思考は出口がない迷路に迷い込んだように、同じ場所を行ったり来たり。顔は固まったまま動かなかった。
「簡単に説明すると……。空間の概念から教えなければいけませんね。喩えましょう」
こうしてシウロンによる空間の説明が始まった。布袋やタオル等が用いられた説明は、要点を押さえた理解しやすい内容だった。
しかしそもそもレンは簡単な計算すら知らない身である。魔術に関わるならと、呼吸よりも優先して傾聴したが、端も理解できないまま終わった。
「魔術ってこんなに難しいの?」
シウロンの説明を理解できる日が来るとは思えず、レンは絶望を瞳に灯す。
「いいえ。今の説明は私に問題がありました。物事には順序があります。レンに伝えるべきは概念についての考え方や、それに類する現象ではなく、もっと初歩的なところであるべきでした。特に概念干渉系の魔術は秘技とも呼ばれる分野であり、優秀な魔術師であっても理解及ばないことが間々あります」
「どういう意味?」
「要するに、下ごしらえをせずに料理は完成しない、といったところでしょうか」
「やっぱりわかんない」
わからないことだらけのレンであっても、今の説明はシウロンが悪いことくらいはわかった。あえて理解しにくい言い回しを選んだに違いない。
そうでなければ明るく表情を緩めたりはしないはずだ。
レンは右手の器を煽って、注がれていた水を飲み干した。最後の一滴が唇に触れてから、じっと器の底に視線を張り付ける。シウロンの魔術を見るためだ。
シウロンもそれに応じる。器の隅っこにノイズが走った。そのノイズから冷たく透き通った水が流れて器を満たした。
レンが眉間にシワを寄せて顔を上げると、そこには満足げに微笑むシウロンがいる。自慢でもしているつもりだろうか。
方法はなんでもいい。いつか驚かせてやろうと、レンは心に決めた。
「では今から魔術について教えましょう」
「今から?」
「ええ。なるべく早いうちがいいでしょう?」
確かに。遅いよりはいい。
「孤児院の火事で魔術の教本が燃えたと聞きましたが、どの程度まで読み進めましたか?」
「読めてないよ。字がわからないから」
「文字、それがありましたね。つくづく自分の考えの甘さに辟易します。思考を放棄した生活に慣れた弊害ですね。わかりました。文字も教えましょう。しかし今は魔術のみで我慢してください。教本の持ち合わせがありません」
今までやられっぱなしだったレンにとって、シウロンのため息は絶品だった。その上、魔術を教えてもらえるという。レンの気分は上り調子だった。
しかし不安がないわけではない。先程のシウロンの説明を全く理解できなかった自分が、どこまで魔術を扱えるようになるのか。
晴天に近いレンの心に、僅かに雲が掛かる。顎に力が入った。
「まず――」
レンは息を呑む。
「身体能力を向上させる魔術を覚えてもらいます」
「わかった。どうやればいいの?」
「焦る必要はありませんよ。その前に魔術と呼ばれる技術、その根本を説明します」
こうして魔術ついての説明が始まった。レンは口を噤んで、聞き漏らしをしないよう耳をそばだてる。
「魔術とは大気中の魔素を利用して、特定の現象や物体を発生させる技術の総称です。例えば先程伝えた身体能力の向上、私が見せた擬似空間の生成などですね」
「あと、火を点けたり」
レンはまだ記憶に新しい孤児院の火事を思い出す。あれは魔術によって引き起こされた事件だった。
しかしシウロンは否定する。
「確かにあれは魔術によるものでしたが、使用された術は温度の急激な上昇です。火を発生させる魔術は、精霊術を除いて存在しません」
「精霊術って?」
「特殊な分野になるので、今は忘れてください。今は身体能力の向上、それだけ覚えていれば十分です」
「わかりました!」
太陽は暖かく、風は涼しい。遠くから清涼感がある花の香りが届いた。
あまりにも長閑で時間の進みが遅く感じられる。欠伸をしかねない程に気の抜けた時間だった。
反してシウロンの目に影が掛かる。突然のプレッシャーにレンの頬から汗が伝った。
「ここまでは一般的な魔術論ですが、ここからはレンの特異性に合わせた話をします。決して口外はしないように」
「――はい」
「よろしい」
この場にはレンとシウロン以外には誰もいない。いるはずがない。それなのについ人目を確認してしまう。
もし誰かが見ていたら、シウロンはその人を蹴散らすだろう。
「魔術には魔素が必要不可欠です。魔素を利用できなければ魔術は使えません。魔素は大気中に含まれています。目に見えなければ触れることもできません」
シウロンは長い髪を指先で掻き上げた。
「どのようにして魔素を飼い慣らし己のものとするのか。魔術師の卵が最初に行う一般的な修練は瞑想です。精神を集中させて魔素の動きを感じ取る。しかし――」
シウロンは指先で、レンの顎に触れて持ち上げる。シウロンとレンの視線が直線で結ばれた。
「レン、あなたには見えているはずです。本来見えるはずがない魔素の動きが」
確信。疑いですらなかった。
風が吹いた。レンとシウロンの間を、破れた葉っぱが抜けていく。その葉っぱは左目だけに見える白いモヤに乗りながら、高く高く舞い上がった。
まさか、これが?
白いモヤが過去に見せた振る舞いを思い出す。いつもは空気中を滞留し、魔術が使われるときに集まっていた。
シウロンが背を見せ距離をとる。二歩ほど離れて振り向くと、左手を開いてレンに見せた。
「どのように見えますか?」
そう言い終わるや否や、白いモヤが渦を巻きながらシウロンの左手に集中する。それは小さな台風のようで、周囲のモヤを喰らい尽くす。
「ぐるぐる回って……その……」
うまく表現できずもどかしさに俯いた。
「それで十分ですよ」
モヤの収集が完了する。シウロンの左手には、辺だけで構成された正四面体が現れた。
「それ、なに?」
「これもまた特殊な魔術です」
シウロンはそれを手放す。正四面体は少し膨れると弾けた。
「魔術を習いたての初心者どころか、上級者でもこの魔術の本質は理解し辛い。しかしレン、あなたならこの変化を理解できるはずです」
答え合わせをするまでもない。これでは折角の陽気が台無しだ。
レンは左目を閉じる。一面が白いモヤで覆われたからだ。
「真っ白で何も見えなくなったんだけど」
まるで雲が落ちてきたような視界だった。
「今の術は一時的に魔素濃度を上昇させるものです。見ての通り、魔素の扱いを学ぶ場として、この上ない環境になりました」
「さて」と、シウロンは元の位置に戻る。
「先程、初心者の修練には瞑想を用いると教えましたね。それは目を閉じて行いますが、レンは目を開けたまま行ってもらいます。歩きながらでもいいでしょう。魔素に触れ離れと繰り返し、視覚以外でも感じられる様になってください。一通りできたら、身体能力向上の魔術へ移ります」
「わかった」
レンは閉じていた目を開き、むせ返るほどの魔素を見る。右目と左目、それぞれ違う視覚情報が混じって不思議な感覚に襲われた。
おそらく右目の視覚情報は邪魔になる。今度は右目だけを閉じて、魔素の塊に向き直った。
「そう心配する必要はありません。魔素が見えるということは、魔素との親和性があると同義です。その上これだけの濃度があれば、すぐに魔素の重さに気づけますよ。本来であれば最初の段階だけで数十から数百日程度必要ですが、早ければ今日中には終わるでしょう。大変なのはその先です」
「ねぇ、教えて欲しいことがあるんだけど」
「どうぞ」
「どうして俺が魔素を見れるってわかったの? 誰にも話したことないのに」
「簡単ですよ。いつも目で追っているでしょう?」
思い当たる節がある。誰かが魔術を使うとき。人に白いモヤが触れたとき。確かに意識を向けていた。
でもそれがわかるということは。
「もしかしてシウさんにも見えてるの?」
「ええ」
レンは煙を払うように、魔素を手で扇ぐ。指の隙間を魔素が抜ける感覚、シウロンがすぐにわかると言った通り、空気とは違う妙な粘り気があった。
魔素が濃いからか。それとも魔素が滞留していると知っているからだろうか。一度手に馴染んだ感覚はすぐには剥がれなかった。
これが魔素の感覚か。一歩進めたと思うと胸がはずんで背中がむず痒い。
「ただ一つだけ言わせてもらいます。その癖を直しなさい。魔素が目で見えることを他者に気づかれてはいけません。難しければ眼帯を付けさせることも考慮します」
「見えちゃいけないものなの?」
「その目の価値は、魔素が見えるだけでは留まらないからです。詳しくはその価値を理解できるようになってからにしましょう。空間の話と同じで、まだ早い。説明しても今のレンでは理解できない事実を、理解してください」
「わかった」
魔素の動きを感じ取るこの段階は、本来であれば目をつむり、心を研ぎ澄ませて集中しなければいけないらしい。
それを雑談をしながらでも進められた。もしかすると快挙では? レンは堪らずシウロンにぶつける。
「こうやって手を振ると、ちょっと冷たくて粘っこい変な感じがするんだけど、魔素ってこれのこと?」
「その通りです。感覚は飲み込めましたか?」
「俺って凄い? こんなすぐにできるなんて」
「あまり調子に乗らないように。誇るのは濃度が低くても捉えられるようになってからです。ではその濃度を少しずつ下げていきましょう」
それから先は歩きながら進めていくことになった。
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