10

 外は暗かった。火が明るすぎただけのような気もする。


 孤児院は巨大な篝火になっていて、月の代わりに周囲を明るく照らしている。


 レンの姿は人の目に留まるはずだった。あの世直送の業火から走るでもなく平然と歩き出てきたのだから、その姿は第三者からすれば奇妙に映るだろう。


 しかし注目を集めるどころか、誰一人としてレンに意識を向けない。これはシウロンも同じだった。


 レンに親しい相手はいない。同じ孤児の中にも村人の中にも、信頼できると断言できる存在はなかった。


 それでも完全に無いものとして扱われる経験は初めてで、レンはぽかんと宙を見る。

 そもそも認識されていない。これもなにかの魔術だろうか。


 見上げてもシウロンは答えない。人差し指を口元に当てるだけだ。

 誤魔化されたくないレンは、シウロンを揺さぶろうとする。先に孤児の年長者が声を上げた。


「おいレン! おまえも出られたのか」


 年長者が駆け寄ってくる。


「怪我は?」


 そう言うと答えを待たずに、レンの頭から爪先まで視線を這わせた。

 怪我の一つや二つしていて当然な状況。レンにはかすり傷どころか、服に焦げ目一つ付いていない。

 年長者が眉間にシワを寄せるのも仕方がないことだ。


「なんともないのか?」

「運良く丁度抜け道を見つけたんだ」


 相手は年長者とはいえ孤児、つまり子どもである。大人であれば突付きたくなる穴だらけの言い訳だが、年長者はそれで納得して深入りはしなかった。


 年長者はそれだけで、さっさと戻っていった。他の孤児たちが集まっている場所、お手伝いさんが小さな子をぎゅっと抱きしめているその場所へ。シウロンの存在には気付いていない様子だった。


「行かなくてもいいのですか?」

「別に。いつものことだし」

「仲が悪いのですね」

「そうじゃないよ。良くもないけど。それに向こうも同じだから」

「同じ?」

「みんな同じ場所にいるだけで仲がいいわけじゃないから」

「確かに、親しげな声は聞こえませんね」


 そう。レンが除け者にされているわけじゃない。除け者にされていたら怪我の確認すらないだろう。

 孤児院の中では全員が他人なのだ。兄弟や友達といった繋がりはない。それどころか、食事を奪い合う敵同士だ。


 火が高く上がった。風がない夜、まっすぐ伸びる火は神秘的ですらある。寝所と私物が尽く燃え尽きるが、現実味が欠けていて焦燥感がない。


 じっと炎を見つめていると、熱くなるどころか眠気が少しずつ――。立ったまま船を漕ぐ直前。


「ふざけるな。離せ! どうしてまだこいつが!」


 怒号に意識を取り戻す。

 反射的に首を振ると、兵士に後ろ手を括られて身を捩る者がいた。


「どんな罰でも受ける。だから離せ! こいつだけは、獣を誘い込んだこいつだけは、絶対に許すわけにはいかないんだよ」


 孤児院に火を放ったあの男だった。眼球が飛び出しかねないほどに瞼を見開きながら、獣のように涎を流しながら唸る。


 レンに向けられた殺意は第三者であっても息が詰まるほど強烈だった。気迫だけで火が点いたと言えば、信じる人が出るのではないだろうか。


 この場にいる全員が、男の声を聞いた。


『ロンドラートの獣を誘い込んだ』


 男は根拠を示していない。論拠不十分、信用に値しないと理解していても、その言葉は心臓を跳ねさせるに十分な力がある。


 記憶に新しいロンドラートの獣による襲撃。それにより男は妻と娘を無くした。放火という凶行に及んだ原動力は、喪失感が裏返った激情である。なぜその激情が孤児院へ向けられたのか。


 この場にいる全員が感情を共有した。その感情とは、男に対する同情心である。


「本当なのか?」


 誰かの独り言から始まる。


「ロンドラートの獣って、普通だったらもっと西の方で出るはずなんだよね」

「そうだよおかしかったんだよ。ロンドラートは北西の方角だろ。それなのにあの獣共は東の森から出てきたんだぜ」

「あの子っていつも森で遊んでいなかった?」

「誘い込んだ……。ありえない、とは言い切れないよな」


 事実無根の言いがかりでしかない。しかしレンでは彼らが納得できる否定ができなかった。

 レンを囲もうとする疑念は、火事にも負けず劣らずな熱量だ。違うと主張しても、衰えるどころか逆効果にしかならないだろう。


「気にする必要はありませんよ」


 温かな声は後ろからの一言だけ。その言葉一つで笑顔になれるならどれだけ楽か。

 味方は他におらず、孤児たちも離れた距離を維持し続ける。


 村人たちがレンを囲むようにして距離を詰めてきた。その視線はかつてないほどに冷たい。


「違うよ!」


 無実だと訴えても誰も信じてくれない。

 力と熱が籠もり全身が強ばる。悔しさで俯き、唇が震えた。


 レンの正面で足を止めた村人が、口を開こうとする。どんな言葉をぶつけられるのかある程度は想像できる。少なくとも、気分がいい言葉ではないはずだ。


 あの男の執着心が伝染した。レンにとって絶望でしかない。


 焼け死ねばよかったのではないか。


 そう思ってしまったそのとき、レンのすぐ横を影が通る。


「えっ?」


 俯いていたレンの顔が上がる。無表情のシウロンが歩み出るところだった。


「小さな子どもが誘い込みをした可能性を追っているのですか?」

「なっ、誰だ! あんたいつからそこにいた」


 どうやら村人たちには、シウロンが突然現れたように見えたらしい。幽霊を見つけたように腰を抜かす人もいた。

 それら全て、シウロンは取り合わない。


「ロンドラートの獣を誘い込むには、十分な知識を備える必要があります。対抗できるだけの実力も……。一朝一夕でできることではありません」

「おまえは誰だって訊いてるんだ。答えろ!」


 シウロンは警戒する村人たちを放って、まるで独り言のように語り続ける。


「ロンドラートの獣を誘引する。それ自体は可能でしょう。しかし条件は無視できません。あれより速く移動できる、あれの攻撃を防ぎ切るだけの盾があるなどでしょうか。彼はどうやって惹きつけたのでしょう。説明できますか?」

「じゃあどうしてこの村が悲劇にあったんだ。おまえこそ説明できるのか?」

「説明する必要がありません。なぜなら子どもがロンドラートの獣を、無傷で誘い込んだ話そのものが荒唐無稽だからです」

「それは――そうかもしれないが」

「ロンドラートの獣に襲われ、滅びた村は数多くあります。ここはそうならなかった。あなた方はまだ生きている。それで良しとしませんか?」

「あんたの言うこともわかる。だが、はいわかりましたと言えるほど単純じゃないんだよ」

「その点はあなた方自身で解決するしかありません。ただ根拠薄弱な責任を、反撃ができない子どもに向ける光景は、あまり気分がいいものではなかったとだけ伝えておきます」


 今のこの村では、発散しようがない鬱憤がそこかしこに溜まっている。村人はそれを吐き出す先を求めていた。


「ああ、そうだよわかってる。わかってるさ。ガキ一人に背負わせても何も戻ってこないこともな」

「そうですか」


 話は終わった。湿った空気が満ちる。今から大声を出したところで誰も聞きやしないだろう。全員がじっと佇むのみだった。








 すぐ側で孤児院が燃えているが、消火に励む姿はない。この場は避難を終えた孤児か、花火を楽しみに来た見物客だけで構成されている。


 訂正、ナシュレイ組合の人たちが見えてきた。


 いかに火事が珍しくても、他人の不幸は蜜の味と言っても、長いあいだ飛び跳ねられるほど感極まるものではない。無風で延焼の心配もないとわかれば、ちらほらと孤児院に背を向ける人も増えてきた。


 帰宅姿が増える中、孤児だけはそうもいかない。帰る場所がないからだ。


「あっ」

「どうかしましたか?」

「もらった本、燃えちゃった」

「本?」

「魔術の入門書。もらったの」

「魔術に興味があるのですか?」

「強くなりたいから」

「そうですか」


 昼間に食いついてみたが、図解が少ない本であったために、一ページどころか一文字も読めなかった。

 あれがあれば兵士という役職に一歩近づいたのに、そう考えると惜しいことをした。


「しかしこんな小さな村に孤児院とは。もっと大きな街にあるべきだと思うのですが」

「昔聞いた。この村はアルサ国の面倒事を押し付けるための村なんだって。孤児院もそれで作られたって」

「ああ。ありましたね。そんなことも。忘れていました」


 ナシュレイ組合の人たちが到着する。孤児たちを匿った後に、魔術を使える面々が何とか消化できないかと腕を組んでいた。シウロンは燃える孤児院を見上げるだけだった。


 全焼したところでレンに痛手はない。他の孤児も似たようなものだろう。

 たった一人だけ例外がいる。


「早く、早く消して!」


 ナシュレイ組合を呼びに行っていたのだろう。院長先生が叫んでいる。心配するのは私物のみで、子どもには目配せひとつしない。いつものことだ。


 この村に消火のプロはいない。当てになるとしたら兵士だが、彼らは戦闘専門だ。火を付けることはあっても、消すとなると不安が残る。


 だからナシュレイ組合を呼びに行ったのだろう。非常時に村へ来た彼らならできるかもしれないと。


 残念なことに彼らも消火の訓練はしていない。火の勢いは収まらず、全焼に向けて進んでいく。


「シウロンだったら、これ消せる?」


 何の気なく訊いてみる。シウロンは孤児院に目を向けたままだ。


「可能です」


 その答えに息が止まりそうになった。院長先生の耳に届いていたら、文字通り飛んでくるに違いない。

 しかし院長先生は火事に夢中だった。自分の叫び声で周りの音をかき消している様子。


 レンはならばと会話を続けることにした。


「じゃあどうして消さないの?」

「無意味だからです」

「どうして?」

「もう既に建て直しは避けられません。再利用できる木材もないでしょう」


 言わんとすることはレンでも理解できた。炎は大きい。今からでは消火するよりも先に燃え尽きてしまいそうだ。


「でも火がついたままだと危ないよ。もし急な風が吹いたりしたら」


 シウロンは口をわずかに開けたまま固まる。


「言われてみれば、その通りですね」

「なんでそんなに予想外みたいな」


 結局、火事を眺めるだけで動かなかった。

 ナシュレイ組合の人たちが魔術で空気を遮断したり、建物を崩したりと格闘した結果、ようやく火が消し止められる。


 残ったのは黒と灰色の塊だった。


「寝るところなくなっちゃった」

「心配いりません。ナシュレイ組合にはその手の用意もあります」

「森で寝ればいいと思ってたけど、なんでもあるんだね」

「ロンドラートの獣の出没によって、家を失う人も出ますから」


 離れている他の孤児たちを眺める。みんなの反応はおおよそレンと変わらない。燃えて困る私物や、ぬいぐるみのような宝物を持っている子もいなかった。


 寝る場所がなくなっただけ。みんな平然としている。


 幼い子は年長者の背中で寝息を立てる。他の子は欠伸をしながら院長先生を眺めたり、熱気漂う瓦礫の山を見下ろしたりと好き勝手にしていた。


 鎮火したことで一帯は夜に戻った。星は明るいが、月は相変わらず雲の向こうでボヤケている。


「あっあぁぁ……。私の私の大事な――」


 暗がりで院長先生の嘆きだけが溶けていく。


「あの方は何方ですか?」

「院長先生だよ」

「あれが?」


 あれとまで言われてしまった院長先生は、瓦礫に向かって膝を付く。まだ赤く点っている焼け跡に震える手を近づけるが、熱にやられてひっくり返っていた。


 院長先生は孤児院の一階に居を構えている。灰になった今では『居を構えていた』と言うべきか。


 かつての院長先生の広い部屋には、ダブルベッドが独座して、囲むようにクローゼットや化粧台、本棚に小物置きと並んでいた。院長先生が長い時間を掛けて、たまに来る商人から買い集めていた私物である。

 院長先生が生きた痕跡であり、院長先生の全てがそこに詰まっていた。


 火事が起こるまでは院長先生も寝息を立てていたはずだ。きっとパチパチと燃える音に腰を抜かして、子どものことを忘れたまま空手で即避難したのだろう。


 冷たい夜風のせいかわからないが、シウロンの視線は氷のように凍てついて見えた。できればこの目を向けられたくないと思うほどに痛い。


 その先にいる院長先生は灰の山を見てもまだ諦めきれない様子で、長柄の箒を引っ張り出して突付いている。


 ナシュレイ組合の人が魔術で灯りを点す。理由は単純に暗かったからだろう。ぱぁと広がる優しい灯りは火と比べると白く冷たいが、火と違って焼け跡は作らない。


「もっと、もっとこっちを照らして!」


 何かを見つけたのか、院長先生が捲し立てる。有無を言わせない迫力でナシュレイ組合の人は対抗できない。言われるがまま灯りを院長先生の手元へ移動させていた。


 程なくして、院長先生が灰の中へ二本の指を向かわせる。まだまだ熱い灰を相手に、院長先生は顔をくしゃくしゃにした。

 ようやく引っ張り出したそれは指輪だった。宝石や意匠の凝った装飾はない。色は煤で黒ずんでいてわからない。


 本来の色を取り戻そうと、袖に擦り付けるが、うまくいかないようだ。擦って確認して擦ってと繰り返す。

 院長先生の表情は崩れる一方だった。しばらくして指の隙間から黒い輪が滑り落ちて終わった。


「どうして私がこんな目に合わないといけないの?」


 院長先生の悲しみは思いの外深いようだ。差し込みを許さない嘆きは、この場を院長先生の独擅場へと変えていた。


 再び灰を漁り始める。必死の形相には狂気が宿っているが、誰も手も口も出さない。結局どれだけ時間を使っても、灰の山から拾えるものは原型とは異なっている。


 院長先生の手が止まる。涙はすぐに枯れた。すっと立ち上がり、視線は迷わずレンで止まる。


「あんたのせいで。あんたが余計な疑いを掛けられるから」


 獣の唸りにも似た低い声。恨みがこもった音。レンよりもナシュレイ組合の人たちが強い衝撃を受けていた。


「火事の原因は彼ではありませんよ」


 ナシュレイ組合の人が宥めようとしても、院長先生の耳には届かない。上げた手を振り下ろすために、大股でレンへと近づく。


「あんたなんか引き取らなければよかった。役立たずの只飯ぐらいで、面倒事ばかり引っ提げて、前から居るだけで邪魔だったんだよ」


 ここにいたのが孤児院の面々だけであれば問題にはならなかっただろう。いつものことで終わっていた。そんな日常も、ナシュレイ組合の人たちからすれば問題発言でしかない。


 院長先生の手がレンに落ちることはなかった。間に数名の大人が割り込んだからだ。


「あんたたちなに? どいてよ!」

「いい加減にしてください」


 それでレンの感情や、院長先生の言葉が消えるわけではない。


 院長先生から『うるさい』『おとなしくしろ』『気が利かない』いろいろと言われてきたが、明確に『いらない』と面と向かって言われたのは今日が初めてだった。


 レンは自身でもびっくりしていた。まさか院長先生の言葉で胸が苦しくなるとは思ってもいなかった。

 胸元に手をあて、爪を立てた。


 この夜はずっと、院長先生の声が村に響いていた。

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