9

「レン、おまえ先行け」

「飛び下りるからいいよ。慣れてるし」

「年上の言うことは聞けよ」

「嫌だ」


 背中に火が迫っている中、言い争う意味はない。しかし取っ組み合いになっても、レンは最後でなければいけない。直感がそう言っていた。


 窓の外、群衆の中で、憤怒に顔を歪める男が手を伸ばす。白いモヤがその手に集まり始めた。モヤの動きには意思を感じる。


 良い予感はしなかった。だからレンが叫ぶ。


「いいから早く行ってよ。その後に飛び下りるから」


 怒鳴り声は火に包まれた孤児院によく響いた。

 意地の張り合いが無意味だということは、年長者もよく知っている。


「わかったよ」


 年長者はそう言うしかなかった。シーツを両手で掴み、孤児院の外壁を蹴りながらするすると下りていく。半分ほどでシーツを手放し、軽々と飛び下りた。


「おい、レン、おまえも早く――」


 レンは男を見ていた。

 男の伸びた手にモヤが集まり消える。その直後に指先が黄色く光った。


 その瞬間、窓辺に火が付いた。レンはその衝撃で後ろに転がる。


 魔術だ。


 不安や恐怖よりも先に、目の前の現象を理解した。


 唯一の脱出経路だった窓が燃えている。その火は瞬く間に広がり、ベッドと周辺にある雑貨をあっという間に飲み込んだ。


 もう窓からは出られない。後退るが、振り向けば扉が黒く変色を始めた頃だった。

 周囲全てが火で囲まれている。もう逃げ場がなかった。熱と煙が押し寄せる。


 部屋の隅では、誰かのタオルケットが燃えているところだった。これからあれと同じようになるのだと考えると、鼓動が速まり呼吸が乱れていく。


 レンの両手がだらんと力なく垂れ下がった。


 死を覚悟したのはこれで二回目だ。ロンドラートの獣に襲われたときが一回目。

 二回目だからか、獣と比べて火には迫力が足りないのか、まだ口角を上げる余裕くらいはある。


 それでもやはり怖いものは怖い。


 最後まで残ったのが自分でよかった。命惜しさに先に避難しようとすれば、あの男はその時点で魔術を使っていたかもしれない。


 あの男の狙いはレンだった。そのレンが最後まで残ったからこそ、あの男は最後まで魔術を使わなかったのだ。


 目を閉じ開く度に、火が距離を詰めてくる。

 このまま待っていても焼け死ぬだけ。それなら、一か八か燃え盛る窓辺に飛び込んでみよう。運が良ければ助かるかもしれない。


 死にたいと思っているわけではない。生きられる可能性がある選択肢を選ぼう。そう決めて窓側に向き直ったときだった。


 足元から嫌な音が鳴る。視線を落とすよりも早く、床が割れて崩れた。バラバラになった床板が下階に向かって落ちていく。

 レンの体も同じように落ちる。窓辺に手を伸ばしても、遠ざかるのみで決して指先は届かない。


「終わった」


 諦めるのは意外と簡単だった。もう無理だと悟った瞬間、頭の中身が全て白く塗られていく。恐怖も楽しさも怒りも嬉しさも、全てが同じで真っ白だ。


 死の間際に陥ると、辿った人生が高速再生されるという。確か……なんて言ったっけ。

 思い出した。走馬灯だ。


 レンにはそれがなかった。振り返るほど人生が長くないからか、それとも命の危機を認識できないのか。


 目を閉じて心に集中した。自分に対し人生について問いかける。

 孤児院は、いらない。院長先生は、いらない。クッキーは、ちょっと欲しい。じゃあスイは?

 想起された笑顔。強くなれと願われ、応えると約束をした。


「まだ……」


 約束を果たせていない。

 心残りが生まれたそのとき、空白に埋もれた感情が、執着心に侵食される。


「死にたくない」


 本能ではなく、理性によりその感情を獲得した。周囲の炎とは対極的に、レンの心は冷めている。


 しかし現状はその思いを嘲笑うように逼迫していた。


 レンは床板を突き破り一階へ落ちている。その下で待つのは、止まない灼熱だ。火傷の痛みを我慢するしないの次元ではない。床に叩きつけられる衝撃と共に火だるまになるだろう。


 でも、それでも、レンは生き残るための手段を想像する。落下するまでの数秒の間に、数時間分にも及ぶ情報処理をこなした。

 これ以上がないほどに考えて考え尽くした。しかし落下と同時に、熱で体の自由が奪われるという結論は取り除けない。


 八方塞がりのこの状況で、レンに唯一残された手段は祈ることのみだった。


「助けて!」


 願いながら、背中が床に叩きつけられた。


「?」


 床にしては柔らかな感触だった。まるでベッドに飛び込んだような。

 照りつける熱もない。息苦しさも感じない。早朝の森のように穏やかで、心身ともに安らぐ。ここは死後の世界だろうか。


「起きられますか?」


 すれ違いざまの挨拶のように、平々凡々な声色。瞼を開けると、すぐ横でその人がレンを見下ろしていた。


「シウ……ロン?」


 今朝、森の奥で出会ったその人がいた。シウロン、この人はいつも気がつけばそこにいる。


 風通しがよさそうな、袖口が広い羽織を纏っていた。帯で結ぶこともなく自由にしている。

 背まで届く長い黒髪を好き勝手に流し、火に煽られ揺れようとも押さえようとすらしない。

 羽織も髪も結わず、他にも所々にだらしなさが垣間見える。髪が長い理由も、散髪に気を回していないからではないかと邪推してしまいそうだ。


「素っ頓狂な顔をして、どうかしましたか?」

「どこから入ってきたの?」

「あそこからです」


 シウロンは孤児院の正面玄関へ目をやった。

 そこは落ちた屋根が邪魔をしていてとても通れる状態ではない。しかし嘘を言っているようにも見えなかった。


 そもそも、今この状態がおかしい。

 周囲が火に囲まれているどころか、レンは火の中に佇んでいる。本来であれば熱でやられるか、煙で呼吸が詰まるかの二択だが、そのどちらも取っていない。


 シウロンも同じだ。ゆったりとした羽織も艶やかな髪も火に触れているが燃えていない。


 幻のようだった。火の形をしているだけの虚像。

 しかしさっきまでは熱を感じていた。実際に孤児院が焼けている。とても幻だとは思えない。それならどうして熱くないどころか涼しいくらいなのか――。


 助かった喜びよりも、不可解な現状への懐疑心が勝っているのは、なんというか少し悲しい。

 自分は一体何を恐れていたのだろう。くだらないことで焦り、みっともない姿を晒してしまった、そんな恥ずかしい気分にさせられた。


「居座る理由もありません。外へ出ましょう」


 レンの疑問は宙ぶらりんのままシウロンが背を見せた。


 どこへ行くというのだろう。道は塞がっている。赤熱化している木片に手を触れ持ち上げるわけにもいかない。


 周囲は炎が支配している。レンの視点では八方塞がりのまま変わっていない。


 シウロンが歩を進めると、瓦礫から避けるように持ち上がった。

 重力に逆らうように、斜めにもたれていた瓦礫が起き上がり、逆側へと倒れる。


 そうだ。この人は魔術師なんだっけ。


 シウロンはそこで足を止め、首だけで振り向いた。


「行きますよ」


 レンは頷くしかできなかった。


 一人分の隙間を空けてシウロンの後に続く。

 灼熱地獄と化した孤児院の通路は、小春日和の散歩と何一つ変わらなかった。

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