8
夜。
月は雲に隠れ、解けてしまうほどの闇が支配している。
ろうそくの灯りすらない孤児院の子ども部屋は、怪物が出ても気づけないほど漆黒に閉ざされていた。
暗闇での一晩を強制される孤児たちは、物音一つ立てずに夢を嗜んでいる。まるで喉を潰されているかのように、とても静かなものだった。
遠くで野犬か狼が鳴いている。風は穏やかで、窓を打ち付ける雨もない。
レンはそんな夜に目を覚ます。てっぺんには雲に隠れる月があり、東を見ても暗く、太陽はまだまだ下にある。そんな深い時間だった。
眠れない。そうさせるのは恐怖心だ。あの男が近くにいるかもしれない。朝に見たあの目が頭から離れない。
孤児院の鍵は緩かった。力任せにするだけで簡単に開いてしまう。
今までは全く気にならなかった防犯性に意識が向く。外の物音、扉の音。至って静かだった。周りの寝息がよく聞こえる。
ガタリと小さな音があった。小動物が出たのかもしれない。
平穏な夜ならそう思っていた。しかし今のレンでは難しい。
あの男がいるのでは? 嫌な想像が膨らむ。
確かめよう。震えて待つくらいなら、こちらから出向いた方が打てる手が多いはずだ。
ゆっくりとベッドから足を下ろした。
寝息と寝言の間を抜けて、子ども部屋の外へ出る。
その瞬間、扉が開け放たれる音が、孤児院に響いた。
やっぱり誰かがいる。レンの肩と顎が震えた。
それでも引き返すという選択肢はない。
一歩一歩、慎重に音を立てないように進んでいく。そして階段に差し掛かったとき、鼻孔に嫌な臭いがこびりついた。
なんだ? この臭いは。
顔を顰めざるをえない臭いには憶えがあった。知っている。枯れ枝を焚く臭いに近い。
「火?」
階下を見下ろすと、食堂に繋がる扉の隙間が、仄かに赤く光っていた。
臭いを加味して事態を把握する。
火事だ。
出火元は台所がある裏手だった。幸いにも子ども部屋の反対側だ。
まだ階段までは火が届いていない。逃げる時間はある。
しかし猶予はない。孤児院は木造の二階建てである。燃料には事欠かない。火が強まることはあっても、弱まることはないだろう。
レンはまず他の子どもたちを起こすことにした。中には年長者もいる。優雅な夢を邪魔された彼らに睨まれたが、意識を回す余裕はない。
レンと他の子どもたちは殊の外、冷静だった。子どもらしくはない。院長先生に相談する意味はないと即断して行動する。
眠りを邪魔され不機嫌だった子どもたちも、火事だと知れば目の色が変わった。皮肉にも保護者に頼らない毎日を送っているために行動が早い。
恐怖で泣き声を上げる子はいるが、駄々をこねて和を乱す子はいなかった。
年長者が脱出を促す。方法は単純で、火が回り切る前に階段を下りて正面から出るというもの。年長者の一人が先導して、列を成しつつ外へ向かうことになった。
この経路の利点は迷わないこと。欠点は廊下が狭いため、順番に出る必要があることだ。
結果を言うと、半数が脱出できた。もう半数は取り残される。
階段が塞がった今、出口は一つしかない。窓辺へ寄った。
「ここから飛び降りよう」
怪我をするかもしれないが、焼け焦げるよりは楽なはずだ。
「でも、怖いよ」
何人かはそう言って拒絶した。しかしそれでも飛び降りてもらうしかない。
残った中に一人だけレンよりも年長者がいた。その子は、怖いと震える子の肩を叩きながら、ベッドのシーツを剥ぎ取る。
「シーツでロープを作ればいい。それなら下りられるんじゃないかな?」
初めて黄ばんだシーツが頼もしく見えた瞬間だった。子どもたちの顔に希望が戻る。それぞれシーツを剥いで端を結んでいく。
レンはその間に窓を開けた。夜の冷たい空気が頬に触れる。
そのときようやく外の状態を知った。子どもの泣き声が呼び水になったのか、それとも月が隠れる夜に火は目立ちすぎるのか、村人が集まっている。
肥大した炎は彼らでは手のつけようがなく、悲痛な顔で見上げるだけだった。
レンが窓を開けたことで、そこに注目が集まる。誰かが指をさし、人々が声をあげた。
しかしそれらはレンの耳には入らない。レンの視線は一点で固定されていた。
集まった群衆、その中にレンを嫌悪するあの男がいたのだ。
レンは自分の首筋に指を当てる。圧迫されるような感覚、錯覚だが感じた。
男は群衆の中でたった一人だけ笑っていた。
レンは孤児院が燃えた理由を理解する。
「おい、レン何してんだ急げ!」
年長者から殴られるように体を揺すられたことで正気を取り戻す。
「ごめん。ちょっと考え事してた」
「状況わかってんのか?」
レンは何も言えなくなる。年長者も言い争うよりも、シーツをベッドに括りつける作業を選んだ。
紐状になったシーツが窓から垂れ下がる。
「急がなくていいからね」
年長者はそう言うと、体重が軽いものから順に下りさせる。
二階から飛び下りるよりは簡単になった。それでもまだ難しいと言う子もいる。特に握力が弱い年少者には不安が残った。
年長者は下りる子の体にシーツを巻き付け足で挟ませる。
怖いと顔を歪めても、「大丈夫。できるから」と勇気を持たせて送り出す。
中には楽しんで滑り下りる子もいた。
しかし全員が勇気を持てるわけではない。
「ほら、みんなもできてるから大丈夫」
唇を震わせる子がシーツをぎゅっと握りしめている。年長者が肩を叩いてから「さあ」と送り出そうとした。
その子は下を見ると反射的に顔を上げて目を閉じる。震えは唇だけでなく、手足にまで波及していた。
「できないよぉ」
か細く声を出すが、やらせないわけにはいかない。窓枠に足を乗せたままでは、いずれ火に追いつかれてしまう。
年長者は言葉を詰まらせた。一緒に下りられればいいのだが、シーツの耐久性に不安があるのでなるべく重量は掛けたくない。
状況を変えたのは外からの声だった。
「おいで。失敗しても受け止めてあげるから」
窓から頭を出して下を見てみると、孤児院の手伝いをしている女性が両手を広げていた。
彼女はいつも院長先生の後ろで言葉一つ出さずに雑用をこなしている。その姿はまるで人形のようだった。我関せずという言葉がよく似合う。自ら行動するような器質はない。
それが、今の彼女は違っている。開かれた瞳には生気があり、汗が頬を伝い、呼吸に合わせ胸を上下させている。
他の村人たちも駆け寄ってきていた。
「安心しろ。俺たちもいる!」
いつも他人には無関心な村人たち。孤児院の子どもと路傍の石との違いを問うても、彼らは答えられないだろう。ずっとそう思っていた。
そんな彼らが受け止めようと手を広げてくれている。震える子どもを落ち着かせるために。
その甲斐あって窓枠で震えていた子はゆっくりと呼吸ができていた。年長者は頬を綻ばせた。
まだ残っていた活発な子が「じゃあ飛ぶぜ」とシーツを使わず飛び下りる。その行動に瞠目する一同だったが、当人は事もなく地面に着地。一回転してから地面に寝そべった。
「いってぇ。受け止めてくれるって言ったじゃんかよ」
文句を垂れ流しながら傷一つ負っていないようだった。土が少し泥濘んでいたようで幸いした。
これがちょっとした笑いを生む。さっきまで場を支配していた恐怖が失せていた。
震えていた子も窓枠から足を外し、時間を掛けて下りていく。次の子、次の子と順次下りて、最後には年長者とレンだけが残った。
ほぼ避難が終了し、一同には安堵感が満ちていた。
たった一人だけ、それを良しとしない人がいる。
レンは窓辺からその人を見つめた。レンを睨むあの男だ。避難が進む前までは余裕の笑みを浮かべていたが、今では苦しそうに顔を歪めている。
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