6

 一体誰だ?

 いつからここにいるのだろう。


 レンは森に一人で入り、ここまで一人で歩いた。池を見つけたときも同じだ。


 誰かが近づいた痕跡はない。草が揺れたり木の葉が潰れる音もしなかった。


 この人が、初めからここに居たとも思えない。池を見つけたとき、周囲には誰も居なかった。


 レンの後に来たわけでもない。初めから居たわけでもない。どちらも間違いだとするなら、なぜここに人がいるのだろう。


 レンが知っている常識では解決できなかった。まるで出口がない迷路に迷い込んだように、現実がレンを狂わせる。


 何よりも不思議に見えたのは、その人の周囲だった。

 レンの左目には白いモヤが見える。昨日見た全ての人は、この白いモヤが近づいて離れてを繰り返していた。


 この人は違う。白いモヤは近づくと渦を巻いて膨らみ、最終的にはしぼんでいく。

 周囲を漂う白いモヤを風とするなら、その人に触れたモヤは雲だ。


 理解できることは何一つない。その人がどうやってこの場所へ来たのか。白いモヤの挙動。どれも常識の外側にある。


 その人は水筒と思われる筒から白い器へ、湯気がのぼる液体を移すと、それを口元へ運んだ。


「私には構わず続けてください」


 言い終わると白い器を煽る。果物の爽やかな甘い香りが広がった。レンにとっては初めての匂いだった。


 続けろと言うが、難しかった。レンからすれば不審人物に他ならない。放置して背を向けて、剣の修練を再会するなんて狂気の沙汰だ。


 その人は荷物を持たず手元には朝食のみ。村では見たことがない知らない顔。気が付いたときには背後にいた。挙げてみればどれもこれも不審点ばかりだ。


 自然と警戒心が湧いてくる。場合によっては兵士に突き出さなければいけない。そのためには捕まえる必要があるわけだが。


 相手は丸腰。レンは木の棒を持っている。武器の有無に関しては勝っていると言ってもいいだろう。

 しかし相手は大人だ。大人の力は、昨日だけでも十分すぎるほど味わった。油断をしてはいけない。


 棒の先を前にやりながら、ゆったりとした朝食風景を睨んだ。


「誰?」

「それはさして重要ではありません」

「名乗れないってこと?」


 丁度、二杯目を器に注いでいるところだった。その人の手が止まる。


「朝、一人抜け出して、剣を真似て枝を振るだけはある。生意気な子どもですね。しかし元気があってよいことです」

「いいから教えてよ。名前」

「シウロンです」


 あっさりと吐くものだから、レンは拍子抜けして次の言葉を忘れた。


 シウロンは目を細くして微笑む。それは自然な表情だった。院長先生の嫌味ったらしい顔とは真逆の印象を受ける。

 構えていた棒が力を失い下りていく。


「剣に興味があるのですか?」

「いいだろ。別に」

「批判をしているわけではありません」

「そんなことより、いつからそこに居るんだよ」

「あなたがそれを縦に振ったときからです」


 シウロンは顔の横まで手を上げると、すかさず振り下ろした。


 初めからじゃないか。池に浮く葉を突いて遊んでいた頃には、シウロンはもう朝食を始めていたということか?

 ありえない、と言いたいが、シウロンは実際にここにいる。


「もしかして追いかけてきたの?」


 時間的にはこれが正解。しかしその場合、シウロンは一切の音も気配も出さずに、森を移動し続けたことになる。レンの常識を当てはめると、これもまたありえない。

 ありえないのだが、シウロンは躊躇わずに頷いた。


「一人で森に入る姿を見かけたので、念のためです」


 念のためとは何かと、レンは頬を膨らませる。ここは毎日のように通い、慣れ親しんだ森だ。危険の有無くらい自分で判断できる。


 手に負えないのはロンドラートの獣くらいだが、それは昨日スイが退治したらしい。つまり森はもう安全なのだ。


 レンはバカにするなと嘯く。保護者ヅラをされているようで、何よりもそこが癇に障った。


 俺は弱い子どもなんかじゃない。


 以前から強くなりたいと願っていた。まだ体が小さく、腕力では決して大人には勝てない。

 それは今だけだ。これからどんんどん強くなってやる。ロンドラートの獣を悠々と追い払えるくらい。


 棒を握る手に力が戻った。これは明確にシウロンへの敵意を表している。レンを庇護するべき弱者とみなすシウロンへの示威行為だ。

 そもそもシウロン本人が危険人物である可能性も拭えていない。


 シウロンは瞼を閉じる。そのときにそよ風で掻き消えるほど、弱々しい独り言を紡いでいた。


「似てはいない。当然ですが」


 レンの耳には届かない。眉間にシワを寄せた頃に、シウロンは閉じた瞼を開いた。


「結局、おまえはなんなんだよ。どうしてこの村にいるんだ」

「特別なことはありません。こちらがロンドラートの獣に襲撃されたと知らせを受け、物資や労力の支援を行うため、ナシュレイ組合が請け負いこちらに派遣されたのです」

「あんたはその中の一人ってことか」

「私は無関係の同乗者です。こちらに用があったので、車の隅を借りたに過ぎません」

「なんだそれ」


 レンの頭の中はぐちゃぐちゃだった。昨日ロンドラートの獣に村が襲われた。だから、なんたら組合が支援に来た。ここまではいい。

 どうしてそこに無関係の人が混じったのかがわからない。


「それで村に用って何?」

「安否の確認です。なので、もう済みました」


 悪い結果ではなかったのだろう。シウロンは微笑んだ。


 きっと親戚や家族が村に住んでいて、憂慮に堪えず飛び出したに違いない。


 レンには親戚や家族を大切に思う感覚が理解できない。なぜならレンには家族と呼べる存在がいないからだ。孤児院の子どもたちは同居人で、院長先生は鎖である。


 同時に、世間一般では血縁を重視することは理解していた。きっとシウロンもその一人だろう。


「明るくなってきましたね」


 もうそんな時間かと空を見上げた。うねぐもが茜色に染まっている。


「さて、戻りましょう。あなたも朝食に遅れるのではないですか?」

「別にいいよ。いつも木の実を取って食べてるし」


 そうでもしなければ、孤児院で出る朝食だけでは足りないのだ。兵士の人に訊いたおかげで森の食べ物にも詳しい。

 空腹になればそれを摘めばいいだけだ。森に引き籠もっても困ることはない。


「親御さんは心配すると思いますよ」

「親? いないし」

「もしかして昨日……ですか? そうなら謝罪しますが」


 昨日といえばロンドラートの獣だ。被害者の中に親が名を連ねていると勘違いしているらしい。


 ならば、そういうことにしようと企んだりもした。謝らせてみても面白い。

 しかしシウロンの顔を見てその気が失せた。その顔には謝意や悪気といった感情がなかったからだ。


 きっとシウロンの謝罪は軽い。形だけで中身は全く伴わないだろう。そう思ってしまったから、どうでもよくなった。


「違うよ。親が死んだわけじゃない。孤児院で暮らしてる」

「そうですか。ならばよかった、とも言えませんね。孤児故の苦悩もあるはずです」

「それはわかんない」

「孤児院なら管理者はいるでしょう。外出は知らせてあるのですか?」

「管理者ってなに? 院長先生なら大丈夫。気にしないから」


 問題さえ起こさなければ、何をしていようとも院長先生は取り合わない。逆に面倒事を持ち込めば、不可抗力であっても理不尽なほどに怒り狂う。


 レンの予想では、子どもが一人いなくなっただけなら気づかないのではと考える。子どもがこつ然と跡形もなく消失したなら、心配するどころかむしろ喜びそうなものだ。

 死体も何もでないなら、補助金は今まで通りで食い扶持その他に余裕が出る。


「先程、私はナシュレイ組合に同行してここへ来たと伝えました。ナシュレイ組合がクルット村への援助を目的としているとも」


 急な語り出しにレンは疑問符を浮かべた。何をするでもなく眉間にシワを寄せる。

 それがシウロンに嵌ったのか、冬の陽気くらいには柔らかな雰囲気に包まれた。


「その援助には食料も含まれています。今までに口にしたことがない物を食べられるかもしれませんよ。ナシュレイ組合は商業も内包しています。首都グラフェルでも名が通る最大手の商会。私は部外者なので詳細は知りようがありませんが、持ち運びや保存に効くという条件に当てはまるあらゆる食料が持ち込まれているはずです」


 その話に心が動いてしまったのは不覚だった。


 レンは物心がついた頃にはもう、ここクルット村の孤児院にいた。他の村や街を全く知らない。

 知識としてここがアルサ国に属していることは理解している。しかし実感は全くなかった。


 この村へ来る旅人や商人は稀だ。首都からは遠く、資源も何もない。国境に面してはいるが、地勢的に価値が薄く、狙われる危険性も低ければ、なんなら他国に取られたなら取られたで構わないと思えるほど田舎。


 外部との接触が極端に少ないこの村にとって、首都からやってきた資材は未知の宝箱に他ならない。


 どんな食べ物があるのだろう。想像してしまうと、よだれを堪えられなくなる。


「朝は魚介類のスープを配ると聞いた憶えがありますね。生魚は凍らせないと運べないので、一度逃すと次はないかもしれません。お金の心配なら必要ありませんよ。無償で配布していますから」


 対価もいらないらしい。早く行かなければ無くなってしまう。無意識に足が村へと向いてしまいそうだ。


 それでもレンは耐えた。空腹に負けては格好がつかない。無表情を貫く。

 傍から見ると、レンの我慢は明瞭だった。シウロンはそれを楽しむ。


「クッキーも積んでありましたね。道中で数枚頂きました。クィーディレの実はご存知ですか? それを生地に練り込んだものです」


 クッキー、レンは人生で一度だけ口にしたことがある。それも数年前の話だ。


 あれは訓練を終えた兵士が休憩を取っているときだった。その兵士は甘いものが好きだったようで、よくお菓子を食べていた。

 レンは昔から兵士の訓練を盗み見ている。その日はおやつ休憩まで覗き見た。


 兵士はその日も変わらず汗を拭うと、訓練所横の椅子に腰掛ける。訓練剣を片付けお茶も用意し、満を持して甘い匂いがする袋を開けた。


 くすんだ黄色のクッキーが袋から取り出された。兵士の口元へ消えていく。カリッと砕ける音が響く度に、より甘い匂いが広がった。


 それを羨ましげにじっと見ていると、兵士がその視線に耐えられなくなる。隣の椅子へ誘われて、クッキーの半分を分けてくれたのだ。


 あの味は忘れられないでいる。レン以外の孤児たちは一度も味わったことがないであろう、溶けるような芳醇な甘みが口いっぱいに広がった。生きていて良かったと初めて思ったのはその時かもしれない。


 クッキーという手札はあまりにも強烈で、ことレンに限り特効を発揮した。もはや選択肢はない。


 しかし、クッキーやったぁわぁい、と両手を挙げて燥いではみっともない。


「あんたに剣の修練も邪魔されちゃったし、もういいや」


 思いついた言い訳を盾にする。

 レンは完璧な口上だと確信していた。村へ戻る原因はシウロンにあり、決してクッキーに釣られたわけじゃない。


 残念ながらこの言い訳は効かなかった。シウロンは小馬鹿にするように小さく吹き出す。

 孤児院のお手伝いさんが、最年少の子を見るときと似ていた。


「剣の修業ですか」

「なんだよ。文句があるのか?」


 シウロンは答えずに立ち上がる。そのときレンが気づく。シウロンが朝食に使っていた水筒や器、並べていた一式が跡形もなく消失していることに。


 どこへ消えたんだ。レンが右へ左へ、忙しなく視線を這わせている間に、シウロンは森の奥へと足を向けていた。


 急ぎ振り向き、シウロンへ目を戻したときにはもう、その影は木々の隙間へ消えていく。


「最初の一振りはとてもよかったですよ」


 顔だけで振り向きざまに発せられた言葉は、レンの思考を未踏の雪原のように真っ白に変える。


 剣を褒められた。それはレンにとって初めての経験だった。


 逆にすれば最初以外は酷いものだったと変換できるのだが、レンは褒め言葉だと受け取った。

 枯れた土に水が染み込むように、嬉しさが心と体に浸透し広がっていく。


 驚きや喜びから始まる様々な感情が暴れまわり、飛び跳ねずにはいられなかった。しばらく表情を崩しそうしてから、シウロンが進んだ先へと目をやった。


「なんだよあいつ。村に戻るんじゃないのかよ」


 正面に太陽が見えてきた。村は背の方角にある。

 今日はもしかしたらいい日かもしれない。前向きな気持になれる朝。シウロンへの最終的な印象は悪くない。

 村へ戻ろう。シウロンが嘘つきでなければクッキーがもらえるらしい。


 木の棒を捨ててから振り向いて、まっすぐ急ぎ足で戻る。帰りの足取りは、行きよりも軽快だった。


 日が昇り、木漏れ日がちらほら落ちる。まだ冷たい風を肩で切った。

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