5
あれから日が明けた。レンはずっとベッドの側から動かず今の時間を迎える。
夜の時間、月が出てから眠りについた。それがいつもより早い時間だったからだろう。起床も前倒しになった。
外はまだ白く、空気が冷たい。
早朝。周囲に音はなく、同室の子どもたちも気持ちよさそうに寝息を立てている。
みんな今では穏やかだが、寝る直前まではロンドラートの獣や昼間に押しかけてきた男との一件で怯えていた。
一人用のベッドに二人で入っていたり、タオルケットで頭の天辺まで隠していたり、それぞれ恐怖への対抗策が講じられている。
中には怖い夢でも見ているのか、ベッドの柱を抱きしめながら表情を強張らせる子もいた。
一度目が覚め、体を起こしてしまうと、再び夢へ落ちるのは難しい。少なくとも今日のレンにはこれが当てはまる。
今まで眠っていたことが嘘のように頭が冴えていた。
何をしよう、と考えても浮かばない。周りの子たちを起こしたくはないが、音を立てずにできることは限られる。
ベッドの上で膝を抱え続けるのも大変だ。夜よりは朝に近くても、いつもの起床時間と比べたら遥かに早い。
起きたばかりで体力が有り余っているレンにとって『過ぎる時間を楽しもう』と老人みたいな娯楽は理解できない。みんなが夢から覚めるまで待ち続けるなんて事実上不可能だった。
抜け出して外に行こう。その結論に至るまでに時間は掛からなかった。
昨日の一件で扉は歪み、開けっ放しになっている。おかげで足音だけに注意すれば、静かに部屋から出られた。
孤児院の玄関から出る。時間の割に外は賑やかだった。西側から声がする。きっと一晩中、寝付けなかった人が多かったのだろう。
衝撃は日が変わった程度で薄まるものではない。二日続けて襲われたりと、嫌な想像をする人もいるだろう。眠れなくても無理はなかった。
レンは声とは逆側の、東側に正面を向ける。
村の東側には、慣れ親しんだ森がある。
遠くまで歩けば朝食に間に合わなくなるが、どうせ誰も心配はしない。
レンはよく森に入る。スイと出会えた遺跡も、その森を探検している最中に見つけたものだ。
森はとても広いため奥まではわからないが、手前側は慣れたものだった。
入り口はいつも決まっていた。村にあるたった一軒の製材所。森の木を切り倒し、木材へ加工する関係上、森へ入る道が整備されている。
整備と言っても、敷石やタイルが張られているわけではない。雑草すら生えないほどに、土が踏み固められているだけだ。
今日もそこから森へと入る。
まだ日が出ていない早朝、朝露が輝く森は闇一色だった。
慣れたでこぼこ道でも朝と昼と夜では別世界だ。住処である孤児院よりも知っている土だが、初めて歩く気さえしてくる。
森の中は、幹が前後左右を塞ぎ、頭上は枝葉が遮る。新月の夜と変わらないほど漆黒に閉ざされ、瞼を開けていても閉じていても大差がない閉ざされた世界だった。
しかしそれは右目だけの話である。左目を開くと色鮮やかな世界が広がっていた。
夜行性の動物も似た視野を持っているのだろうか。
上に太陽がないだけで、緑の葉が揺れ、根の隙間には茶色いキノコが密集し、少し開けたところまで出てみれば桃色の花が咲いていた。
ひんやりとした空気が漂う早朝の森は、勝手知ったる昼間の森と大きな違いはない。違うところと言えば、表に出ている虫や動物の種類くらいだ。
初めて見る黒い羽根の蛾は、レンに恐怖を忘れさせる。まだら模様のトカゲは、レンをより森の奥へと誘った。
足元に這う根を跨ぐ。落ち葉を踏み鳴らし、適当な枝を拾い上げるとすれ違う幹を叩いていく。少しばかり鼻歌も嗜んだ。
森は広く未踏の地もまだ多い。気が乗る度に探検と称し空白を埋めている。今日もそんな気分だった。
いつもよりほんの少しだけ南側に反れて進むと小さな池を見つけた。この森に池は珍しいが、特別なところはどこにもない。巨大化した水たまりと言ったところだ。
それでも子ども一人分くらいの水深はあるようだ。水は冷たく澄んでいて、微かに魚影も見えた。
池のほとりで膝を折る。途中で拾った枝で、船のように浮く木の葉を突いて沈めた。
森の中に籠もっている内は、やることが尽きない。虫を捕まえてもいいし、棒を剣のように振り草を切り飛ばしてもいい。
今日のように探検をしてみたり、木に登り遠くを眺めるのも面白い。
過ごし方は完全に気分で選ばれる。しかしたった一つだけ、森に入るたびに必ずやることがあった。
レンは背を伸ばして立つと、枝を両手で強く握る。枝の凸凹が手のひらに刺さるが、最近はあまり気にならなくなった。
そのまま手を頭上まで運ぶと、そのまま力強く振り下ろす。村に常駐している兵士がやっていた、素振りの真似事である。
レンはその行為の意味を理解していない。それでも兵士がやっているという理由だけで実行するには十分だった。つまりはごっこ遊びのようなものである。
いつからだったか、レンは兵士を夢見るようになった。理由は覚えている。単純な話だ。
レンは兵士が邪険にされるところを見たことがない。きっと兵士なれれば誰にも蔑まれず、仲良くなれるだろうと考えてのことだった。
目的があっても焦りがないレンには、真剣味が欠けている。また意味を理解していない素振りは続かず、今日は二桁に届かないところで終わった。
たった数度の素振りで満足感を得たレンは、次にスイを思い浮かべた。
藁束を斬って回った高速の剣技。あれを見たときの感動はレンの心に刻まれている。兵士の模擬戦を盗み見たことがあるが、それすら比較にならないほどの衝撃だった。
なんとか真似できないかと棒を振る。しかし記憶に残る剣筋とは全く重ならなかった。
ああじゃない。こうじゃない。と首を傾げる。何度試しても、満足できる一閃は描けなかった。
そもそもあのときは、スイの動きを捉えられてすらいない。見えていないのだから、同じ動きができないのは当たり前だった。
初めは落ち着いた気持ちでいられた。しかし失敗に失敗を重ねる度に苛立ちが積もる。木の棒は次第に荒々しくなっていた。
棒を両手で持つのをやめ、片手で乱暴に左右に振った。片足が浮いていて重心もぐちゃぐちゃ。子どもだから許される酷い姿勢で腕を振るう。
勢い余って体が傾いた。浮いてた足を地面に戻し、それでも足りなければ体を回してバランスをとる。
姿勢を安定させたときには前後が反転。池を背負う格好になった。
「えっ?」
レンはつい声を漏らす。そこに人がいたからだ。自分が棒を持っていることすら忘れる。木の根を椅子として朝食を嗜むその人に意識を奪われた。
染みも皺もない衣服。すっと伸びた背筋に、静謐とした顔立ち。
レンにはその人が、別世界の住人のように見えた。
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