4
『服は拾った』
その答えが気に入らなかったのか、男は目元をわなわなと震わせた。しかし後ろの視線が気になるのか、すぐに手を上げるようなことはしない。
「ひろった? 服を? バカにしているのか?」
「本当だよ」
「ふざけやがって」
周囲の白いモヤが男に集まるような挙動を見せた。なんだろう。そう思ったとき、後ろから村人が「おい!」と声を上げる。
程なくして白いモヤは元に戻った。男は舌打ちをして目だけで後ろを睨む。それも長くは続かず、すぐにレンへと視線が戻る。
「ガキでも知ってるだろ。この村はロンドラートの獣に襲われたんだ。そのときに丁度、見知らぬ男がいた。偶然だと思うか? 今までこの村が襲われたことは一度もなかった。あの男がロンドラートの獣をこの村まで誘ったんだ。その証拠にあの男はとっとと逃げやがった」
初めは冷静だった男の口調は、次第に速く大きく変化し、最後には拳が壁を打った。
レンはつばを飲む。
「その男って?」
「化け物共を葬ってから何処かへ消えたよ。今、おまえが着ている服を着ていた以外にはなにもわからねぇ」
スイだ。この服を着ていて強い人。スイ以外には思い浮かばない。
数多の藁束を瞬く間に斬った、スイの腕前を思い出す。あれは素人目でも妙技だと確信せざるをえなかった。
レンの表情が明るくなったことで、男は心当たりがあるのだと受け取った。
「やっぱり知ってんのか? あいつは誰だ。どこに居る?」
「どうして探してるの。ロンドラートの獣を追い払ってくれたんでしょ?」
「だからなんだ。被害が出る前に助けてくれたなら疑わないさ。だがもう村に被害が出た後だった。そのせいで――そのせいで――。くそッ!」
男は目を落とす。床に向かう支線、その先にはレンもスイもいない。別の何かと戦っている様子だった。
レンは震える肩を見て何となく察する。この人は大切な何かを失ったんだ。そしてそれはもう取り戻せない。
ロンドラートの獣が奪うもの。命だ。きっとこの人は、家族とか、大切な人を奪われたんだ。
レンには家族というものがよくわからない。物心がつく頃には孤児院にいた。同じ孤児院の面々は、家族というよりは同居人に近い。
だから家族を失う痛みは想像すらできなかった。しかし大切な人と会えなくなる辛さなら、全くわからないわけじゃない。
レンは両手を開いて見比べる。
スイはもういない。根拠はないがそう考えると――やっぱり胸が苦しくなる。
この人も同じ思いを抱いているのだろうか。恐怖が憐れみに塗り替わっていく。
男は痛みを堪えるように歯を食いしばっていた。血が滲むほどキリキリと顎を軋ませる。
レンに戻した目は先程と変わらない。しかしレンの緊張はそのときよりも軽いものだった。
雑談をする雰囲気でもなし、レンから言えることはない。沈黙が破られるとしたら、それは男からだ。
「いいから言え。あの男はどこへ行った?」
その答えを知っているなら今頃走っている。レンもスイの居場所を知りたいと心の底から思っていた。
知らないことは答えようがない。知らないと正直に伝えても、繰り返しになるだけだろう。だから黙っているしかできなかった。
我慢ができず、男が続けた。
「あの男が関わってるのは間違いないんだ。村を襲わせて、自作自演で恩を売ってやろうとでも考えてたんだろうよ」
そう言われたとき、レンの中で何かが壊れた。全身に力がこもる。
「そんなことしない!」
レンの目は力強く、子どもでありながら男を押し返した。言葉で喉を詰まらせた男は、何を言うでもなく唇を噛む。
偶然居合わせただけの、他の孤児が堪えきれずに泣き声を上げた。しかしレンと男は構わない。お互いに見合わせるのみである。
扉の方からお手伝いさんが走った。泣いた子を抱き上げると来た道を戻る。他の子どもも続いて部屋の外へ出た。
部屋に残った孤児はレンだけだった。しかしレン自身、そのことに気づかない。感情が昂り呼吸ですら熱を帯びる。
対する男は孤児院に押し入ってから、初めて落ち着きを取り戻していた。レンの剣幕に慄き、煮え立つ憤懣を忘れてしまう。
たった一瞬のことだった。それでも確かに、男はレンの形相に鬼を見た。
小さな子どもだと侮っていた相手に脅かされ、男はまず疑問を抱く。こいつは本当に子どもなのか? 子どもは何人か知っているが、誰一人としてレンと重なる子はいなかった。
男は冷静になれた。得体の知れないものを見る目に変わり精査を始める。しかしその精査は進まない。最初に見た一点が既に異常だったからだ。
「何だその目の色」
レンの目の色は左右で違う。面と向かって暫く経つが、男はようやく気がついた。
男はオッドアイを知っている。それはただの知識であり、実際に見たのはこれが初めてだった。
オッドアイは特に何かがあるわけではない。神聖視も邪悪だともされていない。珍しいだけである。そう、珍しいだけだ。
だからこそ異常だった。目の色が突然変わるなんて話はない。このオッドアイは生来のものだと考えていいはずだ。
それなのに男は噂話すら聞いたことがなかった。オッドアイの子どもが居るなら、この狭い村で噂話が広まらないはずがない。
外から流れてきたなら隠す方法もあるだろう。しかし孤児院で飼育されている子どもが目の色を隠し通せるはずがない。
つまりレンはオッドアイではなかった。
男は一つの説を考える。
確か首都まで出れば、目の色を変えられるアクセサリーがあったはずだ。カラーレンズだったか? あれがあれば見た目だけ色を変えられる。
それを使っているとして、どうやって入手したのかが問題になる。
稀に村に来る商人経由は考えにくい。最後に来たのは何日も前だし、そもそも商人がアクセサリーを持ってこの村に来ることはない。孤児なら金銭の問題も残る。
誰かから盗んだか。それなら盗難があったと話が上るだろう。
旅人のような第三者からもらったか奪ったか。レンが着ている服はまさに、この村にはなかった物だった。
「都会の方では、色を変えるアクセサリーがあるらしいな。多くの人が死んでしまったこんな日に、おまえは呑気におしゃれか?」
「そんなんじゃない。俺だって俺だって大変だったんだ。獣に襲われたり……」
「襲われただ? かすり傷すらないくせに、よくもそんな口が――」
その瞬間、パズルのようにバラバラだった男の思考に、ぴったり当てはまるピースが現れる。そのピースは歪んだ額面を完成させた。
「そうか。お前が獣を呼んだのか」
そう考えれば納得できた。
「自分が助かるために村に獣を差し向けたな? お前か。そのせいで、そのせいでリサがッ」
男の興奮はかつて無いほどに膨れ上がる。レンの両肩を力任せに鷲掴みすると、押しやって壁に叩きつける。そのまま首元に手を伸ばそうとした。
殺してやる。
レンでは抵抗ができなかった。大人との腕力の差が覆し難いほどに開いていたからだ。
もはや男は獣のように言葉を介さないだろう。理性を失うほどに見開かれた目を見ればわかる。
男の手がレンの首にかかる。きゅっと気道が萎み、文字通り息が詰まる。
手足をばたつかせ抵抗するが、子どもでは腕と足の長さが足りず、空気を掻くだけで男まで届かない。
首を締める腕に爪を沈めても、首に掛かる力が強まる一方だった。
「捨て子の分際で調子に乗りやがって。絶対に許さねぇぞ」
その言葉の意味は、レンでは理解が及ばない。首を絞められ、思考能力が低下した今では考える余裕もなかった。
しかしなぜだろう。レンは切迫した状況でも冷静だった。思考は働かないが、感情が落ち着いている。
首を絞められている。足は短くて届かない。爪を男の腕に突き刺しても開放されることはない。では次にできることはなにか。
思考力が落ちているために答えは出せないが、淀みなく思考を続けている。
救いは突然のことだった。首に掛かる力が和らぐ。
「気持ちはわかるがやり過ぎだ。相手は子どもだぞ」
男と一緒に来ていた村人が静観をやめたのだ。村人が男をレンから剥がそうとする度に、レンの呼吸が楽になっていく。
いつも通りの呼吸を取り戻したとき、咳が続いてしばらく顔を上げられなかった。
「邪魔をするな」
男が村人の腕を振り払う。
「冷静になれ。明らかにやり過ぎだ」
「こいつが死んだところで誰が悲しむ?」
「そういう話じゃない。この村に殺人者はいらないんだ。これは村全体の共通認識だ。そうだろう? とにかく村の住人を殺すなら、これ以上の協力はできない。話をするだけ、そういう約束だったはずだ。忘れたとは言わせないぞ」
村人がきっぱりと断ったことで、男は言葉を失った。同意せざるをえなかったのだろう。村という共同体に不穏分子が紛れるリスクは大きい。殺人者はその典型だ。
しかし村全体の理性的な客観視点と、男の感情的な主観視点では見える景色が異なる。
男は両者のズレを認識してしまい、個人的な感情は歯噛みして飲み込むしかなかった。
「わかった。理解を求めた俺が馬鹿だったよ。――おまえ、憶えていろよ。ガキだろうが関係ないからな」
それだけ告げて、さっさと踵を返し、一人で部屋から出ていってしまった。
レンと村人が取り残される。追いかけようとは思えなかった。
「あの人は奥さんと娘を失ったんだ。許してやってくれ。本当はあんな人じゃないんだ」
レンはその言葉を無視した。
どんな感情を抱けばいいのか、レンにはわからない。寝起きのように思考がぼやける。
怒りも恐怖も感じていない。どうしてここまで頭が真っ白なのか、レン自身でも全く理解できなかった。そんな状態を良いとも悪いとも思わない。
息は戻ってきたが、絞められた首が指の形に痛む。軽く手で擦ってみると、わずかにヒリヒリとした痛みが走った。
窓から外を見た。時間は夕方前。空はまだ青いが、しばらく待てば赤く染まるだろう。
日光浴をしたら、きっと気持ちがいいだろうなぁ。
ようやく頭に浮かんだ言葉は、何もない日常ですらありえないほど呑気なものだった。
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