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「おい! あの黒髪のガキを出せ!」


 外の怒声にはっとする。レンに詰め寄った男の声だった。逃げ切れたと思っていたのだが、こんなところまで追いかけてきたようだ。


 院長先生は躊躇いもせずに舌打ちをした。


「こんなときに何?」


 外からの声を聴くだけで、行かなくても面倒事だとわかる。

 静寂をモットーとする院長先生からすれば、床を這う害虫よりも忌避したい厄介極まりない案件だ。


 無視したい。しかし無視すればより大きな腫れ物となることは目に見えている。


 嫌な顔はそのままにしても、歓迎するしかないのだ。


 院長先生は頭を掻きむしりたい思いを湛えて玄関まで出向く。本当に床に穴が開くのではと不安になるほどの足踏みをしながら消えた。


 レンはその背中を見送ることにする。下にいる男の要件は想像できる。隠れていたい思いが何よりも勝った。


 院長先生は責任という言葉が自分に向けられることを嫌っている。


 子どもが起こした問題は、子どもが自分で解決するべき。院長先生はそう考えている。

 たとえその問題が殺人だとしても答えは変わらないだろう。当人同士で解決してくれと深入りはしない。優雅にティーカップを傾ける仕事に精を出すだけだ。


 院長先生にとって、祭りでもないのに大声を出す部外者ほど敬遠したいものはない。無視できず、暴力に訴えることもできないからだ。


 だから今回も危険は冒さない。男がレンと会いたいと言えば、その場で了承し我関せずと道をあけるだろう。常であればそうなる。


 しかし今回は場所がよかった。レンは孤児院の子ども部屋にいる。院長先生からすれば、誰も入れたくない場所の一つだった。


 なぜなら孤児院とは名ばかりで、事実上は子どもを押し込めているだけ。体が成されているかと問えば、難しいとしか答えようがないからだ。


 孤児院として運営している以上、国からの補助金が出ている。その用途は疑問符が浮かぶものばかりだが、事実出ているのだ。

 それを正当に使用すれば、子どもたちはそれなりの生活ができる。しかし内情は違う。

 最小限の人員でやっている理由も、この暗い部分を隠すためという意味が大きい。


 この腐った村にも正義に燃える暑苦しい人は稀にいる。その人に孤児院の内情を知られれば、矛先を向けられるのは院長先生に他ならない。


 一度そうなってしまえば、院長先生が願う静かで優雅な日常は、向こう十年もしくはそれ以上期待できないだろう。


 この村では生きにくくなる。しかし他の村へ移るのも難しい。

 一種の烙印なのだ。この村出身というだけで、白い目で見られかねない。

 どこへ引っ越しても、ここで孤児院を運営する以上の金銭は得られないだろう。


 つまりレンが部屋に閉じこもっていれば、院長先生が庇ってくれる可能性が高かった。


 剥ぎ取られたタオルケットを手繰り寄せ、また小さく丸まった。

 やはり外では言い争いが激化していた。興味を示すべきではないだろう。何も聞こえていない体でやりすごす。それが一番穏便に済む方法だ。


 レンは樹の下で夕立をやり過ごすように、激しい口喧嘩が去るのを待つ。妙な気疲れがあったので、じっとしているのは簡単だった。


 待っていれば全てが終わる。院長先生に叩かれるかもしれないが、殺さんばかりの男の前に出るよりはマシだろう。


 おおよそレンの考えは正しい。しかし一つだけ誤算があった。

 下まで来た男は夕立なんて優しいものではない。木々を薙ぎ倒す嵐だった。


「ちょっと! 何を! 嫌っ!」


 お手伝いさんの声だった。続いて雷にも似た足音が続く。


「どこだ!」


 男が無理やり押し入ったのだと理解した。放っておけば眠ってしまうほどに意識を空にしていたレンは、その振動により心が揺れた。目を見開き、まずいと扉を注視する。


 窓から飛び降りて逃げるか? ここは二階だ。できなくはない。


 地面は土だから柔らかい。覚悟の後にすぐ飛び降りても、足が痛い程度で済むだろう。


 しかし窓から下を見るとどうしても躊躇してしまう。レンは子どもでまだ体が小さい。天ほどに遠い地面を見ると、体が後ろに仰け反った。


 そうしている時間は数秒にも満たない。平常時であれば意識する間もなく過ぎていく時間だが、今このときは運命を分けるだけの価値があった。


 扉が外れたのかと思った。ドア枠が壊れる音を響かせる。木製の扉が歪んで傾いた。壊れてはいないが、次から枠に収まってくれるかは怪しい。


 前々から老朽化が酷いと思っていた。床板はギシギシ言うし、扉は力を入れないと動かない。


 だからといって、今日明日の内にダメになるほどではなかった。子ども部屋に踏み入った男が、感情の一片をぶつけなければ、この扉はもうしばらく現役だっただろう。


 レンに逃げ場はなかった。窓から飛べるならその限りではないが、そちらに目が向くことはもうない。完全に男の圧に屈していた。


 男の目は血走っている。鬼ですら尻込みしかねない形相だ。レンではとても太刀打ちできない。


「その服をどうしたんだ?」


 男の声色は、顔色とは決して結びつかない程に温厚なものだった。拍子抜けしてレンの緊張が解ける。


 さっき対面したときはあまりにも恐ろしく声が出せなかった。しかし今は違った。周囲を確認する余裕すらある。


 部屋中の視線が集まっていた。扉の外には大人が三人。院長先生とお手伝いさんと、もう一人は村人だった。


 この人はさっき間に入ってくれた、畑をやっている村人だ。波打つ口元から憂いが透けて見える。

 きっとこの人だけは味方になってくれる。根拠はないが、そう信じる以外にできることはなかった。


 もう逃げ場はない。レンは戦おうと決めて顔を上げる。


「ひろった」


 半分は嘘。半分は本当。レンは挑発する目的でその答えを出した。

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