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レンにとって孤児院は家である。ただし家という言葉の意味は、大多数の人とは異なっていた。レンにとっての家とは、睡眠する許可がある場所でしかない。
この村は人の行き来が少ない。循環がなく時間と空気は停滞し、排他的で思いやりも何もない村だ。
そんな村にある孤児院は、好き勝手にやる村人たちのツケを払うために存在している。
親に捨てられ寝所すらない子どもが、飢えて凍えて死んでしまうから、仕方なく建てられた施設でしかない。
小さな屍が生まれ、それを兵士が数えて機械的に国に報告する度、役人とかいう肩書の物好きが、あーだこーだ小難しく書かれた紙切れを持って、村の食料を無理やり徴収するから仕方がなく、仕方がなく孤児院を建てただけなのだ。
苦肉の策として作られた生産性に乏しいお荷物が、村で優遇されるわけがない。
国から補助金が出たとしても正当な用途に使われるはずもなく、当然のようにまともな運営体制は維持していなかった。
レンや他の孤児たちがいつも口にしているものは、形が悪いパンと野菜の切れ端、水と変わらないスープだ。
新品の服は、基本的には孤児院内には存在していない。あるとすれば院長室だろう。ただしそれは子ども用ではない。補助金で購入した、大人の女性が着る華麗な衣装だ。
子どもたちのベッドも同じだ。購入したと言うよりも、拾ってきたと言うべきボロである。
有り合わせの角材を組み合わせたと言われても疑わないほどガタガタで、物差しをうまく当てられないような有様だ。
スイに見せてもらった部屋を思い出すと、いかに惨めな生活を送っているのかがよくわかる。
と言っても、スイの部屋ほど立派な建物は、この村には一棟として存在しないのだが。
レンにとって孤児院は帰る場所だ。同時に帰りたくない場所でもある。
道端に立ち尽くしているわけにもいかず、さっきまでの全力疾走とは比べ物にならないのろまな足で進んだ。
玄関から入るとすぐのところで、二人の大人が壁を作っていた。内約は院長先生と、手伝いの女性だ。孤児院は主にこの二人で運営されている。
二人は会話をしていたようだが、扉が開いたことで中断、示し合わせたかのようにレンを見下ろした。
「あんたその服はどうしたの?」
院長先生は淡々と言った。レンは俯く。目を合わせるのが怖かった。
「自分の服はどこにやったの? 黙ってないで答えなさい」
このまま無言を貫いても進展はしない。それは過去の経験からわかっている。
そして正直に言っても院長先生は納得しないであろうこともわかっている。
「なくしました」
レンにはそう伝えるだけで精一杯だった。
言い方が気に入らなかったのか、声の小ささに苛立ちを憶えたのか、それとも内容が望ましくなかったのかはわからない。
院長先生はつま先を鳴らす。それは怒りを湛えている合図だった。
「この子は何を言ってるの。その服は? 盗んできたの? 面倒事ばかり持ち込んで。これだから――」
レンはスイを思い出していた。笑顔で頭を撫でてくれた。あんなことをしてくれる人は初めてだった。
俯く視界で、上下する院長先生のつま先を見ていると、現実感を喪失していく。頭を振り回されているように、意識がぐわんと揺れた。
レンは走っていた。
「待ちなさい!」
後ろからの声なんか聞こえない。院長先生の横を抜け、二階にある子ども部屋へと向かう。
階段を強く蹴ると、板材が凹む音がした。
「止まりなさい!」
子ども部屋へ逃げても意味はない。相手は院長先生だ。院内のことなら好きにできる。先がないのだから追い込まれて終わりだ。
それでも進み続けた。レンが唯一、安心できる場所があるとすれば、それは自分のベッドの上だけだ。
ぺちゃんこの布団に、透けそうなタオルケット。レンにとってこれが全てだった。
子ども部屋には他にも子どもがいた。ベッドは十箇所。レンが部屋に入ったことで、子どもとベッドの数が同じになった。
誰も言葉を使っていなかった。レンが部屋に入って視線を集めたがそれだけで、挨拶もなく全員が無視を決め込む。まるで質の悪い嫌がらせのようだった。
しかしこれはレンが虐げられているからではない。子ども同士で会話をし笑い合うと、その声に文句を言う人がいるからだ。
院長先生は何よりも静寂を尊ぶ。話し声や笑い声一つで眉間にシワを寄せるのが日常だった。
全員が言葉を忘れるほどに口を開かない。これは今日に限った話ではなかった。いつもの光景である。
レンのベッドは窓際にあった。冬になると結露で濡れる。そのせいか、木枠は腐っていた。子どもの体重でなければ容赦なくへし折れるくらいに脆い。異臭もする。慣れていなければ鼻を摘みたくなるほどだった。
このことを知っているのはレンだけだ。他の誰も興味を持とうとしない。他の子どもも院長先生も、自分のことで精一杯だった。
そのベッドの隅で身を縮めた。人目に触れたくないために、タオルケットを体に巻き付ける。ほつれた部分に爪が引っかかり糸が伸びた。
すぐ横の窓は白く汚れていた。水垢であろうその汚れが、外を見るとき邪魔になる。
しかし全く見通せないわけでもない。汚れにピントを合わせなければ問題はなかった。
窓の外には人がいた。さっき玄関にいた孤児院のお手伝いさんだ。洗濯物を片付けているところで、布切れを手に物干し竿に背伸びをしている。村中が慌てているのに呑気なものだ。
濁った窓越しではこれ以上はよく見えない。干している布は誰のシャツなのか。風で靡いた髪の何本が肩に掛かったのか。普通であれば見えるはずがない。
しかし今日の左目はやけに調子がよかった。霧のような白いモヤが見える。空気が揺らぎや、お手伝いさんのエプロンに乗った糸くずまでもがはっきりと見えた。
左目に手を置くと、濁った窓ガラスと見慣れた景色に戻る。
どうしてこうなったのだろう。左目を開けると鮮明過ぎる世界が帰ってきた。
冷静に新しい視界を楽しんでいる。白いモヤがお手伝いさんにまとわりつく。かと思えば離れていく。
レンは自分の両手を並べて見てみた。
白いモヤの振る舞いは風に流されるようで、波打ちながら寄ってくる。
右手に触れたモヤは浮かんで流れていく。左手に触れたモヤは、まるで磁石に吸い付く砂鉄のように、一度触れると離れようとしない。
しばらくそのまま放置していると、左手のモヤは小さくなって、最後には跡形もなく消えた。
もう少しこうやって見ていよう。そう決めたとき、部屋の扉が壊れんばかりの勢いで軋んだ。
「レン!」
院長先生の声で現実に引き戻される。
呼ばれても出ていくつもりはなかった。ベッドの端で縮こまる。
院長先生はそんなことを許してくれるはずもない。槌で床板を叩くような足音がレンに迫った。
レンのベッドは窓際だ。正面には院長先生。後ろは壁と窓がある。ガラスを破って飛び降りればその限りではないが、基本的に逃げ場はない。
秒針のように等間隔の足音を聞きながら、その人が正面に来るまで待つことにした。
足音が収まってから、ゆっくりと見上げる。
「呼んだんだから来なさい。どうして私を歩かせたの? いつも恩を仇で返すようなことばかり」
院長先生はフンと鼻を鳴らす。
レンはというと、院長先生の声があまり耳に入っていなかった。
さっきは俯いていたからわからなかったが、院長先生の周囲にも白いモヤがあった。
モヤが近づいたと思うと離れていく。院長先生は特に右頬あたりが顕著だった。
レンは院長先生を無視していた。お互いに向き合っていても頭の中は全く別。院長先生からすると、それがとても気に入らない。
院長先生はレンが握りしめているタオルケットを力任せに剥ぎ取った。
「いつまでその服を着ているつもり? あんたのような盗人がいると、私の評判まで落ちるんだよ」
院長先生はレンにベッドから降りるように指示した。しかしレンは従わない。言葉すら発さず、人形のように動かない。当然、院長先生の機嫌がより悪くなる。
レンは院長先生を見つめて、あることに気づいた。息苦しくなっても、その一点を見続けた。院長先生に服を掴まれ、床に投げ捨てられても変わらない。
すぐに顔を上げて、その一点に視線を戻す。
院長先生の目には、そんなレンが奇妙に映った。怒りが困惑へと変換され、顔に寄ったシワの数が減っていく。
「なにか言いなさい。この私を馬鹿にして――何? どうしたのその目。気持ちが悪い」
レンがずっと見ていた一点とは、院長先生の瞳だった。そこには奇妙なものが映し出されている。
院長先生の目に映るもの、それはレン自身だ。なぜそれが奇妙なのか。
瞳に映るレンは、左右で目の色が違っていた。これが院長先生を無視し続けた原因であり、院長先生が気持ちが悪いと口にした理由でもある。
右目は翠色。左目は藍色。
左右で目の色が違うなんてありえない。
なぜなら水桶を覗き込んだ日から、自分の瞳が翠色だと知っているからだ。両方が緑色だった。絶対に青ではなかった。
どうして突然、目の色が変わってしまったのだろう。そもそも変わったのは色だけではない。
今日のレンの左目は異常なほどによく見える。
院長先生の目に映る自分の顔まで識別できた。
目の色の変化に関しては、直接見ている院長先生より前に気づいたのだから相当なものだ。
左目の変化には気付いていた。原因は全く何もわからなかった。藍色を見てしまったことで、心当たりが頭に浮かぶ。
スイの目の色が、綺麗な藍色だった。ロンドラートの獣に襲われた記憶が蘇る。左腕を食い千切られ、頭にも噛みつかれ、そのときに左目で――。
レンは左目を押さえた。もしかしたら自分の目ではないかもしれない。そう思ってしまったのだ。
同時に否定する考えも浮かんでくる。
大人と子どもでは目の大きさが違う。スイは大人だ。そしてレンは子ども。スイの目をレンに移そうとしても、うまく嵌らないはずだ。
そもそも目を移し替えるなんてできるわけがない。人はおもちゃではないのだ。そんなに簡単に体の部位を取り替えられるなら、きっとみんなやっている。
レンはその否定を信じきれなかった。
スイはいつもの場所にいなかった。どこに行ったのかは今でもわからない。
レンは村へ帰る前、黄色い液体で満たされた箱に入れられていた。
あの場所で袖が千切れ赤く染まった、子ども用のシャツを見つけている。あれはレンの服だった。
服が赤く染まる理由、レンには忘れられない心当たりがある。
ロンドラートの獣に襲われた記憶だ。
左腕に噛みつかれて、それでも逃げようとしたら頭に噛みつかれ、力が抜けて倒れたら足から――。
あのとき左目で最後に見たもの。牙の先端が光っていた。
どうして襲われた記憶があるのだろう。
どうして手足があるのだろう。
どうして左目が見えるのだろう。
どうして左目がスイと同じ藍色なのだろう。
どうしてスイがいなくなったのだろう。
『失ったものは戻らないけど、そんなときはこうやって新しく用意すればいいだけだからね』
スイが楽しげに語った言葉が、脳内で反響する。
レンは左手に目を落とした。どうやってこれを用意したのだろう。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。スイの顔が離れない。嫌な想像が支配する。
スイに会いたい。そうできれば何も悩まなくていいのに。
しかし再会は望めない。不思議と確信している自分がいた。もうスイとは二度と会えないのだと。その思いを直視すると胸が苦しくなる。
決めつけるのはまだ早い。もしかしたらスイは村の中心にいるかもしれないのだ。確かめないと。
でもスイは言っていた。自分は外に出られないのだと。
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