第1話 出会いと旅立ち
1
視界がおかしい。そのことに気づいたのは、村が見えてきた頃だった。
ずっとモヤが邪魔をして視界が霞んでいる。
初めは森が霧がかっているだけだと思っていた。
しかしそれは霧ではなかった。目の異常による錯覚だと気付かされる。左目にゴミが入って閉じたとき、その霧が消えたのだ。また左目を開けると見えるようになる。
その霧は左目でしか見えなかった。
右目と左目で世界が変わるなんてありえない。そして知っている限り、森に霧が出たことはない。よってモヤが見える左目がおかしいのだと結論づける。
左目を手で覆えば、見知った景色になる。手を下ろせば木々が白んだ。
森を出て村に入る。住み慣れているが、居心地がいいとはとても言えない。そんな小さな村だ。
特産品や観光資源のような対外的な資産を持たない寂れた村。
街道からの入口には【クルット村】と掠れた文字の看板が下がっている。誰もその名前は呼ばない。
アルサ王国に属する辺境の村。首都グラフェルから東北東の位置にある。国土の端っこ国境付近にあり、東側に抜けるとハミスト国が見えるらしい。
気候は穏やか。そういう意味では住みやすい場所だ。森や川が近く、自然の恵みにも事欠かない。……それだけだ。他には何もない村である。
森や川に遮られ、土地はそれほど広くない。首都からは遠く、気軽に行き来ができない。
東にはハミスト国がある。仲よくできる国なら諸手を挙げるところだが、寧ろその逆だ。十年ほど前に戦争に近い小競り合いがあったらしい。
十年前は村に被害はなかったが、次があるなら、そのときはどうなるかわからない。
国境付近であるため国も放置はできず、しっかりと兵士が配置されている。一応は天然の防壁に守られているが、付近に斥候が近づけないよう、できる限りの警戒をしている。
そのために送られてくる兵士は一癖も二癖もある人ばかりだ。噂ではそれぞれ違えどみんな後ろ暗いところがあるとか。
兵士たちがこの村を『ゴミ置き場』と呼んでいたり、この村に配置されたことを『人生の終わり』と表現して、途方に暮れていたところを見たことがある。
どういう意味かと尋ねたが、不機嫌にはぐらかされてしまった。そのときは言葉の意味を理解できなかったが、スイと出会った今ならなんとなくわかる。
この村に住む人は、レンと視線を合わせることすら拒む。会話も決まったコミュニティでしかせず、みんな外側には冷たい。和やかだったスイと出会ったことでそれを理解してしまった。
人と人とが常に警戒をし続ける。そんな小さな村。祭り一つないこの村が賑やかだったことは、過去に一度もない。
そして今日、ようやく賑やかになったと思ったら、内約は悲痛の叫びが大半を占めていた。
畑が踏み荒らされ、民家の外壁が砕かれ、ところどころに血のような赤黒い染みが広がっている。
悲惨な光景と言うに相応しい。村の奥へ進めば進むほどその思いが強くなる。
今日、レンは初めて人の遺体を見た。それを抱えて涙を流す村人を横目で見やる。
こうなった原因には心当たりがある。ロンドラートの獣だ。無為に人を殺し、文明を壊すという、この世界で最も忌むべき存在。
あれに襲われればこの通り、凄惨な光景があっという間にできあがる。
つま先は中央の広場に向く。スイが村にいるとしたら、そこしかないからだ。
広場と言っても何かがあるわけではない。ゴミが散乱し、時間を浪費したい人が座っているだけの場所だ。空き地とも言う。
いつものレンなら決して近づかない場所。
距離が狭まるにつれて、騒がしさの中に泣き声が混ざり始める。
「おい! ガキ」
とぼとも歩くレンを止めたのはその声だった。正面では長身の男が道を塞いでいる。虫の居所が悪いようで、視線が鋭く痛い。
顔に憶えはある。ここの村人で間違いない。何度も顔を見ているが、会話はこれが初めてだった。
いつもなら無視をして横を通り抜けるところ。声をかけられ、一瞬でも目を合わせてしまった以上、それはできなかった。
かといって、なんと言い返せばいいのかもわからない。混乱で頭を満杯にしている間に、男に距離を詰められてしまう。
男は嫌悪感を抑えようともせずに、獣のような視線を上から浴びせてくる。
レンは遥か上にある鬼の形相を見る。首を上げると、喉が絞まるような感じがした。
「おまえあの孤児院のだよな。どこに行ってた。それと、その服はなんだ?」
「あっいや、その」
訊かれた内容すら判断できないほど困惑していた。
男は背中から刃物を出しかねない雰囲気を垂れ流し続ける。子どもの身では大人というだけで凍りつく思いなのに、それが威圧までしてくるものだから身じろぎ一つできなかった。
「黙ってないで、なんとか言ったらどうだ」
しかし相手はそんなことお構いなしである。口をぱくぱくとさせるだけのレンに、苛立ちが積もっていく。
「どこに行ってたって訊いてんだ!」
耳鳴りがするほどの怒声。息が詰まり、心臓が止まる程の恐怖を感じる。
一刻も早くこの場から離れたい。しかし現状ではそれが許されないことも理解している。
開放されるには許されるしかない。この人の言う通りにするしかない。
しかし口を開いても上手く言葉が出なかった。とにかく恐ろしかった。本当のことを言うしかない。でもそれで本当に納得してくれるのだろうか。言ってしまえばより怒らせてしまうのではないか。
それ以前に、叫びたくても声がでない。口から空気を吐き出しても、そこには決して音が乗らなかった。
森に行った。たったそれすら言えない。
男の手がレンの首元まで伸びた。着慣れていないぶかぶかな襟を掴まれ、左右に振り回される。
暴力はよく知っている。きっとこの後、叩かれるんだ。
どうせ力では勝てない。抵抗すればするほど、向こうの機嫌を損ねてしまう。レンは早々に諦めてされるがままを選んだ。
痛みへの覚悟を決めて瞼に力を込める。頭を殴られると予想して、首と肩にも力が入った。
しかし待てども拳が降らない。それどころか首元が締め付けられる感覚が和らいだ。
何事かと目を開けると、遠くから小走りで駆けてくる大人がいた。疲れが溜まっているのか、目の下が少し黒い。この人も村人だ。確か畑をやっていた気がする。
「何事ですか?」
「関係ないだろ。お前には」
「そうもいきませんよ。子ども一人を捕まえて、何をしているんですか」
男は隠しもせずに舌打ちをする。
「知ってんだよ。このガキはこのところ東の森によく入る。きっとこいつが呼び寄せたんだ」
「そうかもしれませんけどね、決めつけるわけにもいかないでしょう」
「お前に何がわかるんだ」
「あなたならわかるとでも?」
二人は向かい合って言葉を投げつけあっていた。レンを忘れてしまったかのように火花を散らしている。
蚊帳の外に置かれて緊張がすっと緩む。今まで硬直していた体が軽くなったように感じた。
異様に冷静な心で、今が好機だと判断する。
気がついたときには走り出していた。逃げたと言うべきかもしれない。
「おい、待て!」
しかしその言葉には従わず、孤児院まで急いだ。
男の怒鳴り声に背中を殴られるが、構わず足を回し続けた。
怒り狂う男は、どうやらもう一人の大人に足止めを食らっているらしい。追っては来なかった。
レンはかつてない速度で全力疾走を続け、かつてない距離を走り抜ける。とにかく逃げたい一心で、体の悲鳴には無視を決め込んだ。
振り向いても人影一つ見当たらない。あの大人からは逃げ切れたと、安心して胸をなでおろす。
はずだったのだが、逆に気が重くなり息を吐いた。
原因はすぐそこの、灰を塗ったような外壁の孤児院にある。
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