9

 金色の灯りに目を細めた。眩しさで目がくらくらする。


 寝てたんだっけ。寝起き特有の気怠さが酷い。

寒い冬の朝みたいだ。永遠におふとんを抱きしめていたい。そんな気分だった。


 感情に反して眠気が覚めていく。意識が覚醒に向かい、それに合わせて瞼が開いた。

 ここはどこだろう。眼の前には黄色い世界が広がっていた。


 手を伸ばすと透明な壁に阻まれる。それに体が動かしにくい。両手を左右に伸ばすと、肘が曲がったままになってしまう。


 狭い場所に閉じ込められてる。出口はわからない。平手で透明な壁を叩き続けた。


 透明な壁には傷一つ入らない。

 力も上手く入らない。


 理由は単純である。ここが液体で満たされているからだ。


 水の中にいるのに、どうして息が苦しくないのだろう。

 どうすれば外に出られるのだろう。


 上を見て下を見て、脱出方法を探してみるが駄目。声を上げようにも、液体で満たされているが故にうまくいかない。


 打てる手がなく歯噛みしていたときだった。背中から排水音がした。大きな気泡が上がってくる。

 泡を目で追い頭上まで行くと、空気の層ができ始めていることがわかった。


 その層は時間とともに厚くなっていく。時間とともに角度も変わった。

 どうやらこの閉ざされた狭い場所、そのものが傾いているらしい。はじめは頭上にあった空気が正面へ移動する。


 程なくして、水位は顔よりも下になった。

 顔が空気に触れた途端に吐き気をもよおし、耐えきれずに嗚咽する。口から黄色い液体が漏れ、頬を伝って後ろへ落ちた。


 呼吸を取り戻してすぐ、全力疾走後のような急激な疲労感に襲われる。息が荒くなり止まらない。

 なんとか止めようと、口元に手を当てたが逆効果だった。


 横になっている状態だが辛さが勝る。全身がきりきりと軋むようだ。

 酷い寒気も襲ってきた。体が狂ったように震える。


 寒さを堪えるために体を縮める。寝返りをうった。その瞬間。


「痛っ」


 背中の数カ所に僅かな痛みが走る。体についた接着剤を剥がすような痛みだった。


 どこかに引っ掛けたのかもしれない。少し体を浮かせて底を見てみると、長い針や、赤や青といった色で分けられた管を見つけた。


 疑問に混乱している内に、乱れていた息が整っていた。震えも治まっている。


 上部を塞いでいた透明な壁が左右にスライドし始めた。丁度頭が出せるほどの隙間が空いて、外の空気に身震いする。


 ここから出られる。嬉しさと安心感で、思うよりも先に飛び出していた。


 知らない部屋。裸足で白い床に立つ。全身が黄色い液体でひたひたで、服は着ていない。


 ここはどこだろう。部屋のすべてを見回せるようになり、心当たりに行き着いた。


 スイがいる遺跡に似ている。


 埃や砂を積み上げて壁と床を汚せば、森の奥にあるスイがいる秘密の場所と瓜二つだ。


 さっきまで入っていた、黄色い液体が残っている箱も、『仮想世界』というところへ行ける箱、スイが繭と呼んでいたものと似ている。こっちの方が大きくて綺麗だけど。


 どうしてこんな場所にいるんだろう。


 今日もスイと遊ぼうと思っていた。手伝いもせず孤児院を抜け出して、村を駆け森に入ろうとしたとき……。


 記憶が蘇り息が詰まった。


 いくつもの光る目を見つけたんだ。それはロンドラートの獣で、必死に逃げたけど追いつかれて。


 左腕を食い千切られた痛みを思い出し、左腕を押さえた。恐怖で身を縮めたが、それは一瞬で終わる。


 左腕がある。記憶と矛盾していた。


 足を噛まれたことも思い出す。しかし両足は怪我どころか、傷跡一つない。

 鋭い牙で噛みつかれたのだ。無事だったとしても、噛み跡くらいは残る。治療をしたなら治療痕があるはずだ。しかし何もない。


 もしかして、全部夢だったのかな。


 村がロンドラートの獣に襲撃された。それも全部が夢で、現実ではただ眠っていただけかもしれない。


「俺は馬鹿だなぁ」


 ただの夢を怖がるなんて子供みたいだ。兵士を目指しているのに、それじゃいけない。


 でもなんでだろう。心に空洞が空いている気がする。


 その虚無感を首を振って追い払った。


 今はそんなことはどうでもいい。それよりも服はどこだろう。裸のままではいられない。

 このまま帰れば、院長先生に叱られてしまう。服を無くしたなんて言ったら叩かれるかもしれない。


 部屋中を探す。背が足りなくて覗けない棚があったが、それ以外は虱潰しに見て回った。

 しかし服は見つけられなかった。代わりに信じられないほどに白くふかふかなタオルと、大人用の服が置いてあった。その服を広げてみると。


「スイってこんな感じの服じゃなかったっけ」


 無地で特徴がない服だった。


 とりあえず、その服を借りることにした。タオルで体を拭いてから、服に袖を通す。


 大人用の服はとても大きく、袖も裾も余りに余った。腰回りはきつく絞れば問題なかったが、逆に言えばそれ以外の全てが問題だった。


 着心地は最悪だ。それでも裸よりはマシ。

 自分の服を見つけるまでの辛抱だと受け入れることにした。


 それからも服を探し続ける。部屋の中では見つけられず、一つ外の部屋に出ると、それらしき布切れを見つけた。それは隅に設置された銀色の台に置かれていた。


 その布切れに近づく。近づけば近づくほど、布切れの不可解さに顔が曇った。


 それは確かに服だった。両手で広げてみると、覚えがあるシミまで残っている。

 これが探していた服に違いない。そう確信したが喜べなかった。


 子供用のシャツは、前がハサミか刃物で切られて開いている。

 左腕の袖が千切れており、そこを中心に赤いシミが大きく広がっていた。


 もはや着れたものではなかった。


 シャツがあるということは、ズボンもあるかもしれない。

 目につくところは全て確認したが、どれだけ探してもズボンは見つけられなかった。


 ふと左横を見上げた。そこにはさっきまで眠っていた箱と似た箱があった。とても大きく、見上げなければ全景を把握できない。


 それは黒く濁った液体で満たされている。触れてみると、とても冷たかった。

 箱の裏側には管が通っており、それが壁の中へと消えていた。どこかへ繋がっているようだが、それがどこかはわからない。


 その箱の中をじっと見る。細かいカスが浮いていた。そのカスを注視していると、悪寒を感じた。本能的な恐怖。ロンドラートの獣に追いつかれたときと同種の感情だ。


 外に出よう。説明ができないが、この場所は怖い。

 震える体を両手で抱きしめる。それでも悪寒は収まらない。


 他の余地を考えさせない恐怖に煽られ、足早にこの場から離れた。部屋を出て通路を進む。

 記憶にない場所。不思議と道には迷わなかった。








 階段をいくつか上がったとき、ここがスイがいる遺跡なのだとわかった。寝ていた場所は、前に探検したときは入れなかった下層だったようだ。


 それがわかってしまえば、先程の恐怖心はなくなっていた。

 スイと会える喜びが勝る。


 スイがいる仮想世界へ行くには、ベッドに似た箱を利用する。

 ふかふかのクッションとじゃれ合いながら、いつも通り仮想世界へと入っていく……が。


「あれ?」


 いつもであれば意図しなくても入ってしまう仮想世界に入れなかった。何度試しても駄目だった。


 諦めきれず、なんとか仮想世界に入ろうと、いくつかある箱を梯子した。

 しかしどれも駄目。何度試しても仮想世界には入れない。


「なんでだろう」


 首を傾げながら、次から次へと箱を変えていく。その途中、壊れた箱を見つけた。それは蓋が完全に剥がれて落ちている。


 確かこの箱は、スイが使っていた箱だったはず。

 しかし中には誰もいない。


 どこへ行ったんだろう。周囲はしんと静まり返って、人の気配はどこにもない。


 もしかしたら、村に行ったのかな。きっとそうに違いない。


 一度、そう思ってしまうと他の考えが浮かばなかった。端々から喜々とした感情が漏れ出る。顔は綻び、足は跳ねた。


 急いで村に帰らなくちゃ。そこから先は、考えるよりも体が動いた。

 いつも以上に速く走る。階段を四段飛ばして上がったのはこれが初めてだった。


 開けっ放しの出口を通り抜けたそのとき。「ピッ」小さな音が鳴る。足を止めて振り向いた。


 出入り口は、初めてここに来た日から開けっ放しにしていた。閉めたことは一度もない。

 その扉が、風に煽られたかのように勝手に動いて閉まった。


 ありえない現象だった。ここは洞窟で、決まった風しか吹かない。その風は扉を閉じるような方向性はもてないはず。


 その扉が閉まった。まるでレンが外に出るのを待っていたかのように。


 次の瞬間、爆発音が響いた。つい驚いて尻餅をつく。

 爆発は遺跡の下層で起きているようだ。二回目、三回目の爆発が続く。


 レンには、二つの相反する思いが湧き上がる。

 一つは、仮想世界が壊れてしまう不安。すぐに中へ戻って爆発を止めないといけない。

 もう一つは、爆発によりこの洞窟自体が崩落する危険があること。今すぐ離れなければ生き埋めになってしまうかもしれない。


 本心では遺跡に戻りたかった。あの仮想世界は孤児院や村よりも居心地がいい。なくなるのは嫌だ。

 いつものレンだったら、閉じた扉を開けようと必死になっていたことだろう。


 しかし二つ目の思いが勝つ。誰かに早く離れるように言われた気がした。聞こえるはずがないその言葉が、たまらなく暖かく心地よかった。

 わかった。それ以外の言葉が出ないほどに。


 レンは洞窟から出る選択をする。

 遺跡を背中に、仮想世界を破壊する爆発音を聞いた。


 森に出るまで、洞窟は揺れるだけだった。

 泥濘んだ土を踏み、振り返った途端、洞窟が崩落していく。空洞が塞がり遺跡への道が完全に絶たれるところを、じっと目で見続けた。


 もう戻れない。


 レンは仮想世界を見捨てた後悔を湛える。

 気がつくと右の目尻から涙が伝っていた。

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