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 そういえば。

 スイは研究施設へ帰ってきたところで足を止める。振り向くと村からここまでの足跡が残っていた。


 追手の気配はない。しかし誰かが来てしまうかもしれない。


 スイにとってそれはあまり好ましくなかった。人が施設に入る。それ自体は問題ないのだが、中に放置されている薬剤や設備には触れてほしくない。


 現代の言葉がスイに理解できないように、昔の文字は今の人々には理解できないはずだ。間違った使い方をして、事故を起こされては困る。


 今までは問題なかった。地下への扉はロックが掛かっていたからだ。しかし今は違う。レンが地下から出られなくなってしまうため、再びロックを掛けるつもりはない。


 自爆スイッチって残っていたっけ。あるなら使いたい。設備を一つ一つ、手で壊して回る時間はない。

 なければバッテリーを細工してオーバーロードさせよう。可燃性のものを敷き詰めてもいい。


 スイはそんなことを考えながら、施設の地下二階で待つレンの元へと向かった。


 進めば進むほど体が重くなっていく。限界が近い。壁を支えに足を引き摺った。


 ただいま。


 卵で眠るレンに微笑みかける。その寝顔はとても安らかだった。命の危機に瀕していたのが嘘のようだ。


 このまま放置をしてしまうと、それこそ命が危険に晒される。


 レンの損傷を修復しなければいけない。そのためにできること。


 スイは自らの肉体をレンに分け与えるつもりでいる。レンが失った体を、スイの体組織で補うのだ。


 幸いスイの肉体は誰にでも適合する。昔、仲間に臓器を分けたこともあった。うまくいけば、レンは今日の夕飯に間に合うほどの再生力を得られるだろう。


 これから行うことは、ただの自己満足かもしれない。レンに重荷を背負わせ、苦悩を強いるかもしれない。辛い人生を送らせてしまうかもしれない。恨まれても文句は言えないだろう。


 それでも、やらないという選択肢はなかった。


 スイは口を開き、深呼吸の真似をした。覚悟はもう既に決めている。しかしもう一度。これが最後になるのだから。


 目を見開く。薄っすらと卵に反射する自分の藍色の目を見つめた。そして心の中で唱える。


『これから、培養槽を通して己の肉体をレンへと送り適合、欠損部位の生成をさせる。僕の肉体はレンを生かすためだけにある道具だ』


 過去に死体となった経験があるスイだからできること。黄泉から生還するほどの圧倒的な再生能力。それに付随する魔素への適正。エトセトラ……。

 拒絶反応やその他、些細なことは問題にはならない。スイの肉体はそれほどまでに特殊なのだ。


 これが贈り物となればいい。


 心残りがあるとすれば、レンの頭を撫で忘れたことだろうか。仮想世界では嫌がられるほど撫でてやったが、現実ではまともに触れていなかった。


 代わりにはならないが、レンが眠る卵に優しく触れる。


 兵士になるなら強くなれよ。その姿を見られないのは残念だが、後悔はしていない。




===============


 暖かな風に揺られていた。ここはどこだろう。記憶を辿るがわからない。とても心地良ことだけはわかる。全てがどうでもいい。思考が海に溶けていく。


 水平線に黄昏が落ちた。裏と表が入れ替わる。星の世界。巨大な白い月に見おろされた。


 湖面には星空が映っている。星屑を拾い上げると、指の間で砂になるまで砕けた。


 それがまた新しい星となる。これが世界の全てだった。


光が降りてくる。海底にそそぐ暖かな太陽のように、影がない世界から深淵まで伸びていた。


 手を伸ばすと指がその光に照らされる。手のひらは全ての記憶で、その光が意識だった。


 戻ろう。ここを知るにはまだ早い。飲み込まれてしまうから。

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