5

 レンを案内してから日が明けた。仮想世界では変わらず摩天楼が支配している。わざわざベンチと草原に戻す必要がないので、しばらくはこのままにしておくつもりだ。


 スイはトーストとコーヒーだけの朝食を楽しみながら待つ。

 朝食と言っても、仮想世界での食事に意味はない。栄養はないし、腹も膨れない。味と雰囲気を楽しむだけのものである。


 卓に並んだ皿はどれも温かく、コーヒーからは白い湯気が上がっていた。芳醇な香りが鼻をくすぐる。


 流れる時間を楽しむだけの一時は、人によっては至高と言えるだろう。しかしスイは価値を感じられなかった。

 理由の一つは、この状態が一時間続いているからだ。飽きに近いものを感じている。

 もう一つの理由は、レンがいないからだった。


「遅いな」


 いつもであれば、大声が聞こえてもおかしくない時間である。

 もしかしたら外せない用事が舞い込んだのかもしれない。もしくは新しく友達ができて、その友達と遊んでいるとか。そうであれば喜ばしいが。


 気持ちが落ち着かず膝を揺らす。決して冷めないコーヒーを口元へ運ぶが変わらない。


 どうしても不安な思いが消せなかった。

 スイは旧文明時代に、前日まで笑い合っていた人が、その翌日には地に伏す姿を見てきている。そんな光景が脳裏に浮かぶのだ。


 あの頃と今では時代が違う。違うのだが……。レンは事件や事故に巻き込まれたのではないか。その可能性を無視できない。


 スイは少しだけ外の様子を見ることにした。見ると言っても限界がある。スイ本人は仮想世界から事実上出られない。自分の目を使えない以上、誰かの目を借りる必要があった。


 この仮想世界が属するネットワークに、生きている警備ロボットがいればよかったのだが、残念ながらそれはない。監視カメラの一部と接続するだけで精一杯だ。


 まだ生きている監視カメラは――全体の二割程度か。これだけ生きていれば僥倖と言える。


 スイはシステムに命令を下す。監視カメラの映像をこちらに回せ。


 何の変哲もない部屋に数十を超える映像が表示された。それらは空中に浮かんでいる。

 もしこの光景をレンが見たなら、どんな反応を見せてくれたのだろう。スイは想像するが、虚像はまとまらずに霧散した。


 映し出されたのは、施設内ばかりだった。唯一違うのは二階の非常口だけ。


 昼間でありながら灯りがない施設内はどこも暗く、常人であれば目を凝らさなければ何が映っているのか判別もできない。

 ここは通路なのか? それとも実験室? その判別すら難しい。レンはよくこんな場所に遊びに来ようと思ったものだ。


 どの映像も静止画のように動かなかった。途中で停止ボタンを押されてもわからないくらいには動きがない。たった一つを除いてだが。


 無数に表示された画面の一つに動くものが映る。その瞬間、スイの横目がその映像に貼り付いた。

 二階の非常口の先を映した画面だった。どうやら現状ではそこだけが外部との出入り口として機能しているらしい。


 やはりその画面も暗く、しっかりと理解するために目を細める。と、すぐに見開いた。


 映っていたのはレンで間違いなかった。しかし様子がおかしい。監視カメラには映らない外側に怯えるような目を向けている。ただ事じゃないことは、その様子から察せられた。


 次の瞬間、何かがレンに覆いかぶさるように飛びついた。そのままレンは押し倒される。


 レンを押し倒した影は、スイの知らない何かだった。

 しかし似たものだったら覚えがある。四足歩行の肉食動物。狼や虎のような獣だ。もしこの影も、それらと類似する生き物であるとしたら。


 レンを助ける人は居ない。相手は容赦しない肉食の獣だ。まだ体が小さいレンには自力で乗り越える能力はない。このままではレンは食い殺される。


 一刻の猶予もない。レンの命が風前の灯であることは火を見るより明らかだった。


 即断即決。スイは外に出る決意を固めた。

 外に出れば、それは死に繋がる。だからと迷っている暇はない。

 かつての友との約束は破ることになるが、きっと許してくれるだろう。


「危険だが、短い時間なら大丈夫だろう」


 今、レンを救える人がいるなら、それは自分しかいない。


 目を閉じて世界との接続を切る。システムに簡単な命令を下すだけで、それは達成された。


 鼻をくすぐるコーヒーの香りが徐々に薄まり消えていく。代わりに、何倍もの重力がかかったような負荷を体に感じた。


 何千年ぶりか、もしくは何万年ぶりか。スイは自らの肉体で目を覚ました。藍色の両眼が開かれる。


 生命維持装置との接続が切れたことで、スイの寿命の針が動き出す。


 スイは様々なコードが繋がれた繭の蓋に手を乗せた。ランディング完了の通知も待たず、蓋が開くまでのプロセスも無視して、安全装置ごとこじ開ける。おおよそベッドが立てないであろう異音とともに警告音が喚いた。


 本来であれば、繭の蓋はスライドして上方に開く。しかしスイが内側から蓋に力を加えたことにより、二枚貝のような開き方をする。


 金属部品が床に落ちて響いた。続いて蓋が完全に外れてしまい、部品の上に落っこちた。


 スイは壊れた装置には一目もやらず、繭の中から飛び出す。


 そのままの勢いで、レンが映った二階の非常口まで急いだ。


 非常口の扉は開けっ放しになっていた。レンはここから出入りをしていたのだろう。初めから開いていたのか、レンが開けっ放しにしたのかはわからない。どちらでもいいが、扉を開ける手間がないのは有り難かった。


 そこから外を見ると、レンがいた。初めて肉眼で捉えたレンは、とてもとても痛ましくとても見ていられない状態だった。


 もはや手遅れと言っても差し支えない状態だった。

 レンの下半身は完全に食いちぎられ、加えて体の左側の損傷も尋常ではない。左腕も食われたのだろう。どこにも見当たらない。

 頭の歯型も痛々しい。脳に損傷はないと思いたいが、少なくとも左目は死んでいた。


 遅かったか。もしくはギリギリか。


 とにかく、あの獣をどうにかしないといけない。


 レンに覆いかぶさる獣。それはレンと比べたら圧倒的に大きい。やろうと思えばレンを一飲みできそうな口には、赤く染まった鋭利な牙が並んでいる。


 獣は初めて見る体躯だった。そこらの肉食動物とは一線を画する。と言うよりも完全に別物だ。

 肌は灰色で粘液で塗れているのかてかてかと輝き、両眼孔は電球をはめ込んでいるように光っている。

 胴は丸太のように太く重厚。皮膚はおそらく鋼のように硬いだろう。

 足も弱点にはなりえないほど筋肉質で、見ただけで人間では敵わないと理解できる。足の間接は三つ。爪は隠せないほど長く分厚い。

 尻尾と呼んでいいのかはわからないが、胴と同じ太さの尻尾を後方にだらりと垂れ下げている。体を固定するためのスパイクか、それとも武器か。尻尾の先に進むに連れて、細かい棘が増えていく。


 それは命を持っているのかわからないほど無機質だった。ペットロボットやラジコンのほうが、まだ生気を感じられる。この獣の行動は全て、枯れ葉が風で舞うようなものなのかもしれない。


 スイはその無機質な存在に、懐かしさを憶えた。肉食動物よりも、どちらかというと自分に近い。もしかしたら甥や姪のような存在なのかもしれないと予想する。


 しかしそんなことは関係ない。レンを助けるためにはまず、この獣を追い払う必要がある。武器があれば殺すという手もあったのだが、急いでいたせいで素手だった。


 それでも、やろうと思えばできなくはなさそうだが。


 スイは空気を肌で感じる。昔と比べると魔素の濃度が高い。そのおかげで思っていたよりも体が動く。少しならば無理をしても問題はなさそうだ。


 すっとその場からスイの姿が掻き消える。と同時に、獣の横腹に衝撃が走った。


「……」


 獣は無言でよろける。敵の存在にようやく気が付き、レンから飛び退いて距離を取った。


 普通の動物なら、威嚇でもしてきそうなものだが、この獣は違う。口から一切の音を発しない。鳴き声もなければ呼吸音もない。突然現れたスイを、両眼で観察するだけだった。


 一発殴ってよくわかった。素手でもやれると思っていたが、殺すには時間がかかる。

 獣の表皮は見た目通り硬かった。殴る蹴るしか攻撃手段がない今では、先にこっちの体が壊れかねない。

 レンの命という制限時間がある中で、時間が掛かる殺し合いはしたくはなかった。


 帰れ。


 主人が従者に命令をするように、スイは獣に殺意を放った。


 獣は逆らわない。じっと両眼でスイを見つめた後に、体を反転させて消えた。やはり、という思いが湧くが、今はそれよりもレンだ。


 スイは横たわるレンに意識を移した。全身の血を出し切った後のような血溜まりに沈んでいる。その姿を見て、何も感じなかった。


 昔はこうではなかったはずだ。スイは自らの感情に辟易する。人の死に慣れてしまっているのか、レンの凄惨な姿を前にしても心が焦らない。どこか冷静なのだ。


 自分が人間味を失った化け物のようで気持ちが悪い。しかしレンを助けるという目的を忘れないのであれば、波紋一つない心境はメリットが大きいと言えた。


 レンはというと、幸いにもまだ生きていた。その現状は、生きているのが不思議なくらいだった。下半身が完全に食われている。それに加えて、左半身もだいぶやられていた。


 体の半分近くを失ってまだ息があるとは、スイの常識ではありえない。しかし実際にレンはまだ生きている。


 よかった。これなら助けられる。楽観視はできないが、間に合わないということはないだろう。徐々に実感が湧き始め、スイは自分の胸元に熱を感じていた。


 血の池に指を浸し、両手でしっかりと小さな体を抱えて持ち上げた。


 レンを見た瞬間から気付いていた。おそらく人類は再定義されたのだろう。


 旧文明の人類なら、魔素の中にいれば中毒症状を起こしたが、レンにその兆候はない。少なくとも、魔素への耐性を持っている。

 そういう意味では、旧文明の人類と、現代の人類は別物だと言えた。


 しかし体の仕組みに大きな違いはないはずだ。

 死から遠ざけるための方法は、旧文明の知識であっても役に立つだろう。


 耐えてくれ。そう願って、手のひらから気休め程度に生命力を分け与える。魔素から変換しただけのエネルギー。文字通り気休めである。これで一秒でも長く保ってくれたら上々だ。


「スイ?」


 呼ばれて息が詰まった。視線を落とすと、細い瞼から曇った翠色の瞳が覗いている。


 喋っちゃ駄目だ。


 スイは急いで施設に引き返す。仮想世界が設置されているこの施設。何のために建設され、どんな設備が揃っているのか。スイはよく知っている。それを使えばレンを助けられることも知っている。使う際の代償も知っている。これが最後になるということも。


「スイ……■■■■■■」

 だから喋っちゃ駄目だ。体力を消耗させるな。

「■■■■■■」


 翻訳機能がない現実世界では、レンの言葉が理解できない。そのはずだが、なんとなくわかる。「逃げたんだ」そう言ったような気がした。


 先程の獣を思い出す。あれから逃げたという話なら仕方がない。本調子とは程遠く、起きたばかりとはいえ、スイでも倒せなかった。


「でも、俺は……みんなを守り……」


 その瞬間、とある光景が脳裏に浮かぶ。さっきの獣が人を襲い蹂躙する光景である。


 爪で引き裂けば骨が断たれ、噛みつかれればレンのように体の一部を失う。人が死んでいく。


 今はまだスイが想像しただけの景色かもしれない。しかし現実にならないとも限らなかった。


 この近くにはレンが暮らしている村があるはずだ。先程の獣がそこへ向かっていないとも限らない。


 もしあの獣が人里を見つけたら、何をするのだろうか。楽しげな想像はできなかった。


「兵士になる……決めたのに、なんで……助けよ……なか……」


 放置すれば村に被害が出るだろう。しかし今のスイにとって、そんなことはどうでもよかった。最も優先するべきはレンなのだ。この子を助ける前に、他を助けに行くなんてありえない。そう判断した結果、多数の死者が出るとしてもだ。


 スイは急いだ。レンがデッドラインを跨ぐ前に、生命維持装置に繋がなければいけない。目標は地下にある。

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