第11話 執着

「我が君」

ゆらりと陽炎のように空間が歪み現れた男を、ナギは感情のこもらない目で一瞥した。男は跪いたまま静かに言葉を待っている。


「何の用だ、ゼクレト」

声を掛ければ頭を下げたまま、視線だけを上げてようやくゼクレトは話し始めた。


「お戯れもほどほどになさいませ。皆が御身のご帰還をお待ち申し上げております。この60年、我が君がご不在の間に人間どもは領地を広げ、まるで世界の支配者であるかのように振舞う有様。どうか貴方様に忠誠を誓う者たちに今一度お命じくださいませ」


ナギは切々と訴える声を気に留める様子もなく、手元の液体と粉末を混ぜ合わせている。薬の調合のほうが大事だと言わんばかりだ。


「今は忙しい。聖女を手に入れたら戻る」

「そのまま奪ってしまえばよろしいでしょう。恐れながらあのような小娘にご執心されるほどの価値があるのかと不満の声が上がっております」

ゼクレトが言い終わると同時にナギは端的に命じた。


「全部処分して」

「……我が君?」

戸惑うようなゼクレトの呼びかけとは反対にナギの声が真冬のような冷たさを帯びる。


「僕の行動に口出しするような奴らはいらない。露払いはお前の仕事だろう。――それともお前もそいつらと同じか?」

「っ!いえ、我が君の御心のままに!」


身震いするほどの魔力と威圧感を向けられて、ゼクレトは深々と頭を下げた。少年の姿をしていても魔王たる所以は変わらない。少しでも返事が遅れていたら自分の命はなかった、そんな確信に冷たい汗が背中を伝う。


冷たい眼差しが逸れたことを感じて、ゼクレトは主の命令を実行するため一礼して姿を消した。


しばらく薬の調合を続けていたナギだが不意に手を止めて、薬の入った器ごと消し去った。

「興が削がれた」

少年から青年の姿に戻り、苛立った気分のまま水鏡を作りだせば、ユーリの姿が映し出された。

燃えるような真っ直ぐな眼差しで魔物と対戦しているユーリに心がざわつく。その懸命な姿が、抗いもがく様子が自分を惹きつけるのだ。


人間も魔族も甘くコーティングされた言葉や態度を自分に向けるが、中身はどろどろとした醜い感情で溢れていた。傷だらけなのに透明で美しいユーリの魂を絶望で染めることを想像するだけでぞくぞくする。


人の悪意に気づかせれば何でもないように振舞っているが、それでも僅かに傷ついたような表情を覗かせるのだ。自分の言動が彼女の心に影響を与えていること、それはナギに暗い喜びと満足感をもたらす。


「最初から堕とさなくて正解だった。もっと僕を楽しませてくれるよね」

水鏡に映ったユーリは魔物を倒したようだったが、ところどころに衣服が赤く染まっている。苛立ちが消え失せ気分が良くなったナギは、新しい道具を取り出して嬉々として薬を調合するのだった。



ざわりと肌が泡立つような感覚で、スイは強い魔族の存在を知覚した。細かい場所までは分からないが、小屋の方向にいるようだ。それならば魔王の元に配下の魔族が現れた可能性が高い。


力が全ての魔物の本能とでもいうべき感覚は役に立つが、裏を返せばそれは強い生存欲求のようなもので、強者に対しては従ってしまいたい誘惑に駆られてしまう。


左肩の痛みとユーリの存在がなければ、魔王を前にした時に思わず膝をついてしまっただろう。畏怖の念を抱いた自分に対して言い表せないほどの自己嫌悪に陥った。

どれだけ人でありたいと願っても、魔物であることを実感させられてそんな自分が厭わしくて仕方がない。


それでもユーリを護れるのなら、生き延びていて良かったと思える。

生まれ変わったユーリを見つけた瞬間、暗闇の中に光が差したように世界が一変した。

温かい液体が頬を伝い自分が泣いていることに気づいた時には、まだ感情が残っていたのだと安らぎのようなものを覚えた記憶はまだ新しい。


だからこそどれだけ嫌な顔をされても冷たい態度を取られてもユーリの傍にいたいと願ってしまう。誰よりも大切なのに殺すことしかできなかったことへの贖罪なのか、かつて人であった頃を知る存在への依存なのか、自分でも分からなかった。


(だけど覚えていてくれたんだな)

アンズの実をかじった後、何かを思い出すかのようにじっと果実に視線を向けたユーリを見て、自分と同じことを考えたのだと分かった。


あれはまだ幼少時代のこと、熱を出した自分のためにユーリが栄養価の高い果実を採ってきてくれたのだ。口に入れた途端、強い酸味が広がって思わず顔をしかめてしまい、それを見たユーリはスイが止める間もなく口にして目を白黒させていた。


『酸っぱい…栄養があって美味しいって聞いたのに……』

泣きそうな瞳は酸味のせいではなく、落胆の気持ちもあったのだろう。自分のためにと準備してくれたものを残すわけがなく、全て平らげると心配そうな表情の中にも喜びが見え隠れしていた。


後日、ユーリが風邪を引いた時にはスイは蜂蜜をたっぷりかけたアンズをユーリに与えた。その時の嬉しそうな表情を見てスイはユーリへの気持ちを初めて自覚したのだ。

それからアンズは二人にとって特別な果実となった。


(俺にはユーリが必要でそのために何を犠牲にしても守り抜く、それだけ分かっていれば十分だ)

鍛錬の邪魔をするつもりはないが、何かあったときにすぐに駆け付けられる距離にいたい。正体不明の魔族の存在は気になったものの、スイは一定の距離を保ちながらユーリの気配を辿り、彼女の帰りをひたすら待つことにした。

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