06 その記憶消して下さい(1)
王都のドルレアン公爵家に呼ばれた魔女ユーディトは、夫の冒険者セルジュと共に王都に来ている。ふたりとも王都は初めてであった。
公爵家の一人娘エメリーヌ・マリー・ドルレアンが、先日のミュンデ伯とグレミヨン男爵の話を聞いて、依頼してきたのだ。
広い公爵家の立派な応接室に案内されて、出てきた公爵令嬢エメリーヌは艶やかに渦を巻いたくせっ毛の黒髪、スミレ色の瞳の少し勝気そうな美少女だった。
「わたくしは王太子殿下と婚約しておりました」
この国ブリアルモン王国の王太子殿下クロード・フェリクス・ブリアルモンは、この公爵令嬢エメリーヌと10歳の頃から婚約していた。ドルレアン公爵家はクロード殿下の後ろ盾となり、ひいては王家の後ろ盾となる予定であった。
その結婚は政略結婚であるが、エメリーヌは金髪碧眼の王太子に恋心を抱き、辛い王太子妃教育にも耐え、あまり気を使わない王太子にも仕えてきた。
しかし王太子は黒髪のエメリーヌを大切にしなかった。国王も王妃も、見事な金髪碧眼である。それゆえエメリーヌを少し見下していた。
学園に入って、王太子はピンクゴールドの髪の可愛い平民の女性にうつつを抜かし、エメリーヌをないがしろにしだした。最近ではその恋人ファニー・シュナルと人前で堂々といちゃつき、エメリーヌと婚約破棄するとまで言い出す始末だ。
「わたくし、もう疲れましたの」
エメリーヌは心底疲れた顔で、そのスミレ色の瞳を揺らめかせる。
「この際、わたくしの中の殿下の記憶を、さっくり削除していただきたいの」
「それはもう、あるモノでしたら、無くすことは出来ますわ。でも、無いものをあるものに出来ませんわよ」
すべて削除したら、良かったことも嬉しかったことも無くなってしまうのだ。
「分かりましたわ。もういりませんの、思い出すのも苦痛ですの。すべて消して思い出しもしないようしてくださいまし。あ、何度見ても思い出さないようにしてくださいまし、覚えるのも嫌ですの」
こんなにとことん、徹底的に、心の奥底から嫌われるなんて、その婚約者は何をしたのだろうと、ユーディトはセルジュと顔を見合わせる。
「それでしたら完全に削除いたしますわ。何か殿下の物がございますか? 髪の毛とか、爪とか」
「髪の毛を頂いております」
エメリーヌが懐紙に包んだものを差し出した。
「間違いないですね?」
懐紙の中の金色の毛を見てユーディトが確かめる。
「はい。殿下には何も影響はございませんの?」
「大丈夫ですわ。痛みもかゆみも感じませんわ。貴女の記憶の底から何もかも削除し、入り込んで来ないよう排除も完ぺきにいたします。ご安心ください」
「ありがとうございます」
「どこか横になっていただけるところがいいですわね」
ユーディトに言われて、公爵令嬢は二人を客間に案内した。
「では、そこに横になって下さい」
ユーディトは客室のベッドを指す。
「お待ちください。その方はこちらの控室に──」
侍女がセルジュを引き留めようとする。
「大丈夫ですわ。この者は私の夫ですし、女性には蕁麻疹が出ますの。あなたちょっと触ってみます?」と、ユーディトは年かさの侍女を指名した。
侍女が恐る恐るセルジュの手を指の先でちょんと触っただけで、セルジュの手が真っ赤になる。侍女が驚きの目で見る。
「ひっ!」
「まあ!」
侍女たちは驚いて皆セルジュから離れた。
「──痒い! 氷よ、我が身を鎮めよ」
小さな氷がセルジュの手を覆う。ユーディトがハンカチを出して、セルジュの手にぐるぐると巻いた。
「そういう訳で、ごめん遊ばせ」
ユーディトは横になった令嬢エメリーヌの傍らに立ち、懐紙の髪の毛を取り出して手の上に乗せる。呪文を唱えると、それがボッと燃え上がって白い灰になる。
ユーディトはそれをエメリーヌの上に振り撒きながら呪文を唱える。
侍女たちはベッドの足元に下がり固唾を飲んで見守った。
「辛い思いよ、辛い面影と共に現れよ。すべて彼方へと飛んで、消え去っておしまい。思い出す事は無い、思うことも無い、その名を胸に刻むことも無い」
横たわっているエメリーヌの身体からもやもやと黒っぽい靄が湧いて出る。
ユーディトの手が、エメリーヌの身体の上に出た靄に手を添えて、フッと息を吹きかけると、それは窓の向こうへとゆらゆらと飛んで行って消えた。
しばらくして「施術は完璧ですわ。いかが?」と、魔女がにっこり笑ってエメリーヌの顔を覗き込む。
「まあ、なんと晴れ晴れとした気分でしょう」
そこには暗い顔をした令嬢はもういなかった。侍女たちがほっと胸をなでおろすなか、エメリーヌは晴れやかな顔で言う。
「ありがとうございます、黄金の魔女様」
「オレたちの事は覚えているのか」
セルジュが聞くとエメリーヌはもちろんと答えた。
「はい、何か大切な依頼をいたしました。記憶を操っていただいたようですわ。では、これはお礼の代金ですわ」
「まあ、こんなに! ありがとうございます」
ユーディトはほくほくして礼金を受け取り、公爵家を後にした。
***
「ごめんね」
公爵邸を出てプラプラ見物をしていると、ユーディトが謝ってくる。
「これか?」
ユーディトが巻いた手のハンカチをセルジュは解いて、ユーディトに返した。まだ侍女の触れた所が赤くなっている。
ユーディトはわざと侍女にセルジュの手に触らせ、蕁麻疹を起こさせたのだ。彼女たちが獲物を見つけた魔獣の様な顔をして、セルジュを見ていたから。
薬を出してセルジュの手に塗り込んだ。これで少しはましになるだろう。
「オレも、記憶を無くして蕁麻疹が起きないように──」
「ダメ!」
「お前、ヤキモチ焼き過ぎるぞ」
「アンタの場合、シャレにならないからね」
セルジュは反論できなくて、拗ねたように口を尖らせる。
「もう、そんな顔もしちゃダメ」
「しゃーねえな」
セルジュは荷物からローブを取り出して、ユーディトに着せる。自分もローブを羽織ると手を繋いだ。まだまだ熱々であった。
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