第26話

 あたしは修道院にいた頃は祈りを捧げる毎日が退屈だった、僧兵に混じって鍛錬していた頃は教会が民を守るのだと思った、王城には騎士団がいるし城下町には警備団がいる、あたしは自分が父とともに新たな領地に赴いた暁には貴族として領地運営する前にその土地の駐屯兵と一緒に庶民の生活を見て歩くつもりだった。

 何事も見て知らなければ、聞いた話だけでは何も分かっていないのと同じだ。

 そう思っていた。


「危ない!」


 偶然通りかかった東門にほど近い外周街の通りで、今まさに警備隊が駆る暴走したかのような馬がひとりの少女を踏み潰そうとしていた瞬間だった、考える前に身体が動いていた。

 人混みを掻き分けて少女へ駆けるその時に幸運が訪れた、逃げる人々がそれと逆に少女へと向かうあたしを避けてくれたのだ。自分でも意識せずに口をついて出た雄叫びが人々の波をこじ開けたのか、必死の形相をしたあたしを見て恐れ慄きどいたのかは考えない、右足を強く蹴り出した瞬間に眼前が開いたのが幸いした。

 左足で1歩、右手を大きく振りながら前傾姿勢になり右足で通りに敷き詰められた石畳を踏み砕く速度で駆ける、左足を大きく前に伸ばしながら遠く見えた少女に両手を伸ばして獣のような低い姿勢で飛び込んだ。間に合う、大丈夫だ、馬が少女を跳ね飛ばす前にあたしが少女を────


 あたしが危ない、もう止まれない速度で少女に飛び付こうとしているが、少女がどうなるか考えていなかった。今のあたしは瞬間的にだけど早駆けしている馬よりも早い、そんな速度で少女を抱えてその後どうなるだろうか、間違いなくその衝撃だけで彼女の身体は大きなダメージを受けるだろう。

 馬の方を蹴り飛ばすように飛び込めば良かった、そう思っても止まれない、あいつや神父に口酸っぱく言われている『何事も考えろ』という耳の痛い言葉が脳裏を掠める。だって無理じゃない一瞬の出来事で少女を助けようと駆け出すじゃない、後のことを考えてたら彼女が弾き飛ばされるか踏み潰されちゃう。

 眼前に挫ける少女、側面に駆ける馬、この状況で出来ることに、あたしは賭けた。


「これでどう──だ!」


 あたしは右手で首に巻いた赤い布を掴んだ、あいつ巻いている布の真似をした訳では────いや実際は真似た。あたしのはただの長布だけど、赤い布を首から肩にかけるよう服装を変えた、私なりの赤い旗だ、私なりの覚悟の証だ。それをぐいと引っ張った。

 少女と馬が交差する寸前、飛び込んだあたしは赤い布で少女の身体を包み引っ張りながら走り抜け、右足を軸に数度ぐるりと回転をした。そのまま警備隊の馬は駆け抜けていく、罵声のひとつも浴びせてやりたいところだが今はぐるりと回っている最中だ、回転するごとに少女にかかった力を弱め、勢いを殺しきったところで生きた心地がしていないような悲壮な顔をした少女をそっと地面に下ろした。

 あれだ、小さな子供が親にしてもらうような、腕を掴んでぐるぐる横に回るあの遊びを、赤い布を少女の命綱にして突進の勢いを回転に変えたのだ。咄嗟の判断だったけど、結果オーライうまくいった偉いあたし。

 もっと偉いのはこの子だ、今まで声ひとつ上げずに頑張った、偉いよという思いを手に込めてあたしは女の子の頭の上に手を乗せた。


「もう、怖くないからね」

「ひ、ひっ──」

「大丈夫だよ」

「──うわああああああん」


 少女が泣き出すのと、警備隊の馬に蹴散らされた民衆から歓声と拍手が起こったのは同時だった。誰もが貴族警備隊の馬に少女が重傷を負わされるか死んでしまうと諦めていた中、寸前で救出したあたしに賞賛の声が浴びせられる。泣き出した少女も呆気に取られて、ぽかんとしたまま泣きながら彼女を抱きしめる母親の腕の中にいた。

 あ、やばい、これ新聞屋に嗅ぎ付けられるとまずいと気づいた時には、あたしの周囲を人が取り囲み始めていた。あいつと神父に何度も言われているんだった、目立つなと、顔と名前は出すなと。あたしは首元に赤い布を巻き戻して顔を半分隠して、感謝の言葉を言っている母親にだけ小さく手を振って人混みを掻き分けた。人に感謝されるのはこんなに気持ちがいいものだと、それをもう少し体験して噛み締めたかった気持ちを追いやって、今あたしがやるべきは────


「あの警備団を追いかけなきゃ、何が起こったのか!」


 外周街で屋台の肉を頬張っていたら大きな爆音がした、そして大声が聞こえた、何事かを駆け出してほどなく警備隊の暴走馬が何頭も走っていった。何もない訳がない、あいつらが向かったのは、あたし達のアジトである壊れかけの教会の方角なのだから。



 大司教がその魔法を解く甲高い音がした瞬間、8本の光剣は朝霞のように消えていき、私の身体は光の檻から解放され地に足をつくことができました。左足で着地しそのまま右足を前にだしながら、左手に持っていた司祭帽を床に投げ捨て、右手の錫杖を天井高く放り投げます。二歩三歩と歩く間に両手で胸元の金具を外し司祭服を脱ぎながら逆さに返して羽織り直し、裏の仕事用である黒衣の司祭姿になって、落ちてきた錫杖を手で受け取ります。


「ウィズリを起こしてください、すぐ飛んで帰ります」


 私の正体を知っている大司教の前で何を取り繕っても仕方ありません、ラッセルの前では必ず会話の末尾を同じ言葉にすると決めて話していますが、それすらも今は関係ありません。表情を変えずに微笑みを湛えている大司教の横で、彼女付きなのか何なのかの黒い妖精がその手にした槍をウィズリの首元に突き刺さし、ひと呼吸おいたところで眠りから覚め始める声が聞こえてきました。


「では失礼、くそ女」

「おやおや、あまり悪い言葉を使うものではありませんよ」


 私の口調を真似されて癇に障りますが今はそれどころでありません、詰襟の中から首元の黒い布を引っ張りラッセルのように鼻先まで顔を隠し、乱雑にウィズリの身体に左手を回して抱えると、私は魔力を込めて言葉を唱えました。


黒翼白翼グレイウイング


 大司教の手振りに応じて入り口を固く閉ざしていた大きな扉が動き出します、同時に私の背中には白と黒の光の翼が4枚互い違いの色で形作られ、ふわりと身体が中空に浮き上がります。


「もう少しゆっくり帰って欲しいのだけど、あと急いでも廊下を走ってはダメですよ」

「言質を忘れなきよう、あと走るなどしませんよ」

「あなたの神様に、よろしくね」


 私は忌々しく口元を歪めて大司教に意思表示をしてから、白と黒の翼に魔力を込めて一気に飛び立ちました。重厚な石造で鈍色神殿と呼ばれている建物の中を、廊下を、ラッセルの早さまでとはいきませんが人の目に留まらないほどの速度で飛び抜けていきます。何事かと出てきた僧兵などが私とウィズリへ気づく前に彼らの前を飛び去ります、彼らには黒い大きな烏が神殿内を飛んでいるようにしか見えないことでしょう。

 大司教サリュウ・ファウは『あと1時間は欲しい』と言いました、彼女の光剣八封エイトライトロックに囚われていた時間が15分ほど、黒翼白翼グレイウイングで飛んで教会に戻るまで更に15分ほど、合わせて彼女の欲しいといった時間の半分です。そもそも1時間と言ったのがフェイクかも知れませんが、ケルドラ城下で高い位置を飛ぶことはできない以上、飛ぶ姿を目撃されるリスクを冒してでも最速で戻る以外の選択肢は持ち合わせていません。

 神聖区を抜け、まだ結界までへの高さに余裕のある貴族区の上空を飛び抜けて、私は通行門を無視して城下町の街並みへと空を駆けていきます。屋根の上を飛んでも気づく者はいるので何事かという声も聞こえますが、その音を一瞬で遠くへ置き去りに私は低く疾く飛び続けます。その速度のまま東門の検問所を突破して外周区へ向かうことにします。

 私は彼女を、つくづく嫌らしいことをしてくる女だと思います。彼女が三英雄の旅から外されてこの地にいるのは、私はもちろんラッセルの所為ではありません。かといって不満や叛意を示せば面倒を被るのはこちらの方ですから、普段はできるだけ言うことを聞いています。少々忌々しく口元を歪めるくらいは多めに見てもらわないと困るというものです。

 私は意識を取り戻して黒司祭の姿に取り乱して抱きついてきたウィズリを意識の外にやりながら、焦る気持ちをできる限り抑えながら呟きます。


「ラッセル────死なないで下さいよ」



 ボクの必死の手当てでラッセルは殆ど意識がないものの荒々しく息を吹き返して、何度も薬液や唾液を散らしながら咳き込んだ。ここまでくれば後は何とかなる、ボクはラッセルを担ぐ用意をして、遠くから聞こえてきた馬の蹄の音に気がついた。


「なんてタイミングの悪いッ!」


 このまま教会の跡地というに相応しい瓦礫の山を立ち去ろうとしたところに、運悪く警備隊か騎士団か、ともかく複数の誰かが馬に乗って近づいてきた。そりゃそうだボクだって驚くほどの轟音や、とんでもなく大きな声で『赤き旗の盗賊団』って叫ばれたんだ、これで駆けつけないようなケルドラ警備隊じゃない。ボクはラッセルを両手で抱えなおして素早く辺りを見渡し、吹き飛ばされた屋根や壁が折り重なってちょうど人が隠れるのに良さそうな物陰に走り込んだ。人払いをしてある教会付近だから近辺での怪我人は少ないと思うのだけど、その中にあって唯一重症の少年がいたら怪しいなんてものじゃない、何とかやり過ごさなければいけないと判断してボクは息を潜めた。


「フォーン隊長、この辺りが爆心地というか、何とも────何があったのやら」

「ええい見ればわかる、お前ら手分けして近辺で怪しい者がいないか探せいッ!」

「はっ!」


 運が悪いけど当然と言えば当然だった、できればアムネリス隊長率いる第三警備隊が来てくれたなら誤魔化してもらうこともできたけど、語尾に特徴のある物言いの隊長と言えばマクギリアスの第一警備隊だ。ボクは物陰で唇を噛みながら、このまま黙って捜索の手が及ばないことを祈るか、外周区の方から来た第一警備隊を避けるために貧民区へ逃げ込むか、判断を迫られていることを苦々しく思った。せめて警備隊が来る方向が逆だったなら東西の外周区に用意しているボクのセーフハウスへ逃げ込んで熱りが覚めるまで隠れることもできたのに、建物が少ない貧民区では逃げきれないだろうし、加えて第五警備隊が南門から出てきたらそれはもういい狩りの的になる。ざっと見たところ今駆けつけている第一の警備兵は20人ちょっと、それを突破するだけの速度と脚力が自分にはない、でも突破さえできればその方が安全だ、いい切っ掛けがないかボクは物陰から見える範囲で何かないかを探した。


「おうおうおう、おめえら誰に断ってここで何をしてやがる!」

「何だ貴様!」


 いた、切っ掛けだ、警備隊の副隊長らしい男が馬上から反応して、みんなそっちに意識を取られている。


「てめえら警備隊は安全な城下町の中でイキってりゃいいんだ、ここいらは俺たちの縄張りだ、このゴンドリア様のなあ!」


 ありがとうゴンドリア、君の犠牲は忘れないよ。ボクはゴンドリアが起こした騒ぎに乗じて、ラッセルを背負って瓦礫の影を縫って走り警備隊の目を掻い潜ってセーフハウスに向かった。

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