第三章
第23話
灰色の石柱は高く、この廊下の天井を支えています。私の身長は高い方ですが、支えが必要なほどではありません。しかし使いとして訪れたウィズリは私の腕をその胸と両腕で支え、離れるように蹴っても何度も抱きついてきます。私も途中から諦めて、天井を見つめたり横に見える風景へ目をやって、彼女の存在を無いものとして歩みを進めます。
この神聖区から見るケルドラの城下町は扇状に広がっています、王城とその後ろにある昏く深い大穴を円で囲むように神聖区があって、その円から貴族区以降の街が放射状に作られていったと聞いています。まぁ過去の成り立ちなんて伝え聞きでは正確な情報もわからないものです、私にはこの街が昏く深い大穴から山の斜面を流れ落ちていった魔素が餌になって繁殖したカビか苔の群生みたいに見えます。魔法を使わない治療法や人体を壊死させる方法の研究で何度か試しましたが、菌類というものは水分と養分そして適度な環境があれば繁殖していきます。最初はゆっくり、増えるに従って加速度的に増殖をするそれに、この街が重なって見えます。
「逆さ山脈から水の恵み、昏く深い大穴から魔素、そこにケルドラの通貨ですよ」
今ではケルドラ通貨が主軸貨幣です、周辺各国でも同じ貨幣を使うようになりましたし、唯一その造幣ができるこの神聖区は宗教と経済の発信地になりつつあります。もちろんアリオベック公爵の御業があってこその造幣ですが、あのお方はあまりにも俗世に興味がなさすぎる。いやはや怖い話です、三英雄がその仲間を楔としてここに残していく訳です。
私はその楔に呼び出されてこの神聖区に来ました、王城が白磁の城と呼ばれるのに対してこの神聖区は濃淡様々な灰色を中心とした重厚な石造で鈍色神殿と呼ばれます。どこまでが白でどこからが黒かはっきりしない独特なその雰囲気が私は嫌いで、灰に塗れたような気分になります。あと司祭帽を被るよう強要してくるのも嫌いでした、私は仕方なく右手に司祭杖を持ち、左手に司祭帽を抱えてこの長い廊下を歩いています。左腕に巻きついているものが目に入りましたが、すぐ意識の外に追いやります。
この神聖区にある聖堂や様々な施設を通り過ぎて奥まったところにそれはあります、三神教の大司教その人の居室です。数人の高位神官とすれ違った程度で、私は目的の部屋に辿り着きました。部屋の前で左腕に巻きついていた肉塊も守護の僧兵に剥がされました、身軽になった私は重い気持ちで平坦な声を出します。
「キース・キーストン、参りました」
音もなく居室の両開き扉が動き出します、普通は大司教ともなれば常時その周りには司祭や助祭を伴うものですが彼女だけは異なります、常にひとりで居室にいて必要な時にしか出てくることもありません。いまこうして動いている扉も誰かが手をかけている訳ではありません、彼女が手をかざすだけで大男が数人かかっても動かせないような石の扉がスルスルと音もなく開いていくのです。
その扉の向こうに高い天井から吊り下がる白や黒の薄い布で形作られた天蓋があり、その中に彼女が横に寝そべる豪奢な供物台のような寝所が置いてあります。彼女はいつもそこに横たわって肩肘をつき、美しい微笑みをたたえたその頭部を支えているのです。目を閉じたその作り物のように美しい顔と白い薄衣で要所を隠しただけの熟れた肢体を見ながら私は歩みを進めます、数歩行くと後ろで大きな扉の閉じる音がしました。
「大司教サリュウ・ファウ、先日に続いてまた呼び出し、勘弁して下さいよ」
彼女の金色で真っ直ぐな髪の毛の間から覗いた目がうっすら開き、天井から居室内に淡く差し込む光で照らされている私を視認しました。芸術品のようなバランスで整った顔立ち、心のうちが全く読み取れない表情、いついかなる時も動揺の欠片すら見せない挙動、私は何を考えているか分からない彼女が苦手です。
彼女は寝台から両足を下ろしながら上体を起こし、その縁に両手を添えてゆっくりと口を開いた。
「キース、先の件で押さえた魔神像の使い道が決まりました、正しくは確定しました」
吸血鬼が遺跡で魔素を蓄えていた魔神像は、ラッセルの赤布で包んだまま私たちのアジトで保管していました。強力な魔素を蓄えた魔神像を持ったままケルドラ王都の城壁門を通ることは不可能とまでは言い切れませんがとても困難で、また城壁の上を通ることは確実に不可能だと言い切れます。そのため状況報告をした時点では処理を決めるまでの間、私とラッセルが預かるという方針を伝えられました。
あれから数日経って、今朝早くに大司教の使いとしてウィズリが私の寝込みを襲──いえ私の元に訪れふたつのことを告げました。ひとつは魔神像を保管するための加護布を用意したのでそれで包み直すこと、もうひとつが私ひとりで大司教の居室まで来ること、でした。
「伝えれば済むことを呼び出すのは、私にはあまり良くない内容だから、と聞こえてしまいますよ」
「なのでウィズリには君を確実に、首に縄をつけてでもここに連れてくるように言い含めておきました」
「だから何度も『私に首輪をつけて下さい』と懇願してきた訳ですか、される私の身にもなって下さいよ」
「そういう趣味はありません、時にここに来るまでどのくらいの時間が掛かりましたか?」
大司教サリュウ・ファウは顔を横に向けて私から目を逸らしながら、問いかけてきました。ただでさえ表情が読み取れないのに顔を背けられては全く何を考えての問いかけかわかりません、私は素直に答えることにします。
「概ね2時間ほど、貧民区から南門を通り貴族区を迂回して神聖区の外側から来ましたよ」
「あと1時間は欲しい、本気を出されると困るから、ね?」
私が立っている位置を中心に長さ2メートル以上ある光剣が8本出現すると同時に身体が宙に浮かされ、その剣で構成された三角形の透明な面が8枚、私を取り囲みました。やられました、見るのは初めてですがこれは光で作った正八面体で対象を閉じ込める
「ウィズリに命じる!急ぎ教会へ戻りラッセルを守れ!」
ひと呼吸おいて返事がないので、扉の向こうにいた彼女も既に大司教に押さえられたことを察しました。その証拠に大司教には何の動揺も見えず、先程の姿勢のまま微動だにしていません。彼女が何をどうやったのかはわかりません、警護の僧兵がいる以上は殺してはいないはずですが。
「安心して下さい殺したりはしません、眠らせただけです」
「黒き眠りの槍というあれですか、いったいどうやったのか私にはさっぱり見当もつきませんよ」
大司教が左手を掲げると、私の背後で大きな扉が音もなく開きました。向こう側には僧兵もいません、ぐったり脱力したウィズリの首元を見えない何かが引っ張り上げてこの居室に入ってきます。いえ小さかっただけです、黒い服をまとった小さな妖精がウィズリの首元を持ち上げて、その小さな妖精の身で只人の大きな身体を持ち上げて居室の中に持ってきました。妖精なのか、いや妖精に見えるようで大司教の使い魔なのか、いずれにせよ一瞬でウィズリを無力化するだけの何かであることは間違いありません。扉が閉まると大司教が何をしたのか説明してくれました。
「ウィズリは黒き眠りの槍で夢の世界に落としました、白龍すら眠らせる槍、自力では目覚めません」
「私には大司教、あなたの話を聞いて大人しくしていないと彼女は目覚めさせませんという意味に聞こえますよ」
「そう言っています」
詰んでいます。
私自身が封じられ、仮に
「ではお話をお伺いします、私はこんな場所を離れて早く帰りたいのですよ」
「キース、釣りというものをしたことはありますか?」
「てっきり魔神像の話かと思っ────いえ、釣りは知っていますが経験はありませんよ」
黒い妖精を肩にとめた大司教から目に見えそうなほど強力な圧迫感が発せられ、私は素直に答えることしかできません。こんな化け物が神聖区の奥まった居室にいるだけでも、今の神聖区には居たくありません。もっとも彼女がくる前からこんな場所には居たくもないのですが。
「竿に糸をつけてその先に鈎を括り付けます、鈎に餌をつけて川に垂らし、魚がかかるまで待ちます」
「魚によって餌を変えたり、狙う場所を変えたりするという、あれですね」
「そうですねキース、何度も場所を変えたりしますが、基本は待つことだと思っています」
つまり魔神像が餌だと言いたいのでしょうか、であれば釣り上げたい魚は魔族か何か、大司教がそんなものに興味を示す理由が分からないところです。
「キース、あなたに預けた爆弾はいい餌になりました」
「それはそれは、預かる私たちには心臓に悪いものでしかありませんでしたよ」
「面白いジョークです、確かに心臓に悪いものです、でもあなたも自分の望みを叶えるためにちょうど良かったのだと思っていましたが、違ったのでしょうか?」
何かが噛み合いません、私は口を閉じて彼女の言葉を待ちました。
「2日前、サード区で住人の集団昏睡事件がありました、若い男ばかり60人ほど、昏睡というか限界まで精気を吸い取られたと言った方が正しいかも知れません」
その情報はまだ手に入れてませんでした、私たちの情報網もまだまだです、改善していく必要がありますね。なお精気というのは生命力であり体力のことです、魔素を元にしたものが魔力であれば精気が元となるものが体力、そういう違いです。一般的に体力は男性の方が高く、魔力は女性の方が高くなりやすいという傾向がありますが、今はそういうことを考えている場合ではありません。
「治療の甲斐あって昨日のうちに数人が意識を取り戻したのですが、彼らに共通点がありました、彼らを襲った女にある単語を聞かれたそうです」
住人に魔神像のことを聞き出す意味はありません、ずれていたパズルのピースが動き出します。
「キプロニウスへの鍵になりそうなのです、そして私が持つ竿にはキース、君という釣り糸がありました」
「この腐れ女」
「魔神像の使い道は撒き餌です、魚を誘き寄せることができます」
「今すぐこの檻を解け」
「魔女という魚が探している言葉が餌です、ええ『赤き旗の盗賊団』という名前の餌です」
「ラッセルをどうする気だ!」
「あの爆弾が鈎になるでしょう、私はそう読んでいます」
この会話を聞いていたのかと思ってしまうようなタイミングで、居室の外、いや神聖区、もっと遠い場所からの爆発音が低く響いてきました。その音で激昂しかけた私の頭が冷静を取り戻し、状況の把握を始めます。
大司教が言う『魔女』が『赤き旗の盗賊団』を探している、預かっていた『魔神像』はその『撒き餌』だと言う、今教会にはラッセルひとり、私はすぐに動けないよう囚われています。そこに大きな爆発音、ケルドラの城壁から上には神聖区を中心とした強力な結界が張られていますから魔法はもちろん投石などの攻撃も防ぎます、であれば爆発は外周区や貧民区で起きているはず。
大司教は緩やかに口角を上げて涼やかな笑みを投げかけてきます、言葉と共に。
「撒き餌に魚が誘き寄せられたようです、餌の役目は十二分、鈎が深く刺されば糸が切れても大丈夫です、その檻はあと15分ほどで解いてあげますからもう少しだけ待っていて下さい、解かれたあとに何をどうするか考えておくと良いでしょう」
自力で
「三英雄と悪魔の巻き添えにされては困ります、そちらはそちら側でやって下さいよ」
「彼の左目を奪ったのはあの坊やです、餌として匿われていた訳ではないというのであれば、それを示すのが良いでしょう」
「言質、いただきましたよ」
私も覚悟を決めました、まだ先のことと考えていましたが前倒しになっただけです、大司教がこの魔法の檻を解いたらすぐに飛んで駆けつけます、だからラッセル────
「死なないで下さいよ」
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