第19話

 俺は一度立ち上がろうとして途中で力を抜き、刃を持ったままの両手と片膝をついて前傾で動きを止めた。ニックは動こうとして意識を失ったのか横に倒れ込んだ、セシリアを抱えていたタキもバランスを崩してふたり重なるようにもつれ倒れた。広い祭事室の空間には石のかけらがパラパラと崩れる音と、吸血樹が枯れていくパキパキという乾いた音が響く。その不規則な小さな音の中に、ゆっくりとした規則的な足音が響いてきた。先にひとり、後からふたりの足音だ。


「これは予想外、新たな養分に良いかと思えば、只人も侮れぬということか」


 フラリと崩れ落ち膝をつくまでの一瞬、漆黒のスーツを着たような細い手足が見えた。肩から腰までの黒いマントはその内側が真っ赤で、大きくたったその襟が包んでいる顔は青白く細かった。これは魔族、吸血鬼だ。

 後ろに控えているのは女性の身なり、片方は十字架の意匠が破り取られた法衣をまとう女、もう片方は軽戦士風の出立ちで剣を携えた女だった。第二班で派遣された司祭というのはこの女だったのだろう、ただ既にどちらの女も首筋に牙で噛まれた跡が黒く残っているので、完全に吸血鬼の下僕になっているようだ。残念だがもう人に戻ることはできないだろう、既に魂は抜け落ちているのだろうから。


「よい、良質な魂ひとつは百の有象無象に勝る、どれ」


 吸血鬼の左手が不自然に伸びて、鋭い爪が崩れかけの吸血樹の根元に突き刺さる。軽い音を立てて割れた幹の中から、吸血鬼の腕は黒い光を放つ刺々しい物体を引き抜いて手元に寄せた。

 またか、形は違えどこれも魔神像の類だ。何本もの角が重なり絡み合うような形のそれは、黒い光としか形容できない不気味でどろりとした輝きを湛えていた。吸血鬼はその魔神像を手に横や裏を見て、思案するようにつぶやく。


「少々、足りぬか」


 吸血鬼は動かなくなった俺たちに目を向け、順に何かを見ている。


「男は大した量ではない糧、子供はゼロか、若い女────実に良い、傷の女は醜いが質が良い」


 ニック、俺、セシリア、タキの順に品定めしやがった。糧とか質とは魔神像に取り込ませる魂や魔素量のことなのか、イーリス領でもケル・ムントが領民の命を魔神像に捧げていた、この吸血鬼も同じようなことを遺跡に植え付けた吸血樹でやっていたのだろう。ただ司祭や女戦士を下僕にしているところを見ると、気に入った女は糧に捧げず自分のものにすると見た、セシリアを気に入るとは趣味が悪い。


「ふむ、外には多少厄介な坊主がいるか────だがこの吸血鬼、カル──ぬっ」


 俺たちから意識が逸れた今この瞬間こそが好機だ、地面についた手で握っていた短剣を鏡にして敵の動きを見ていた。鏡がわりの短剣に映らない、足音や声を発する大きな魔力の塊が近づいてきた時は焦ったが、手にした魔神像や下僕は映るしそれでおおよその動きは読める。

 俺は全身のバネを一気に解放して飛び上がると、右手に握る聖水で濡れた短剣を吸血鬼の首目掛けて振り抜いた。ゴブリンの首を切り落とすよりも軽く、聖水のついた短剣は吸血鬼の首を跳ね飛ばす。そのまま吸血鬼の下僕ふたりの上から左手で用意していた油を染み込ませたワイヤーの輪を投げつけ、下僕の首を縛り上げて女どもを後ろに引き倒す勢いで着地する。着地と同時に手甲に仕込んだ火打ち石を擦り合わせてワイヤーに火花を放つ、しゃがみ込んでいる俺より下僕の女どもの首の位置が高い、火は走るように上に登り獣のように怒り狂い始めていたその歪んだ顔に燃え移った。


「残念!俺にその手の魔法は効かないよ!」


 最初の一手で跳ね飛ばした吸血鬼の首に向けて、右手の短剣を銀杭に持ち替え鋭く投擲した。これで終わりだ、頭部の回復には時間がかかるからキースを呼んで浄化すれば吸血鬼といえども塵に返る。

 いや待て。

 そうだった、俺はセシリアにもそう言っているし、キースからは何年も言い続けられている。慢心した方に死神の鎌が向く、気を抜いた間抜けはこの世を生き抜けない、冒険者どもの常識じゃないか。俺の目の前で首を跳ね飛ばされた吸血鬼の身体がふわりと浮き上がり、右手で己の首に爪を立てるように掴み取って、投擲された銀杭を避けた。首を落とした程度で死ぬとは思っていなかったが、ダメージのひとつも与えられていない様子に俺は読み違えたことを理解した。こいつ、吸血鬼の中でも上位種かも知れない、となれば俺がやることはひとつだけだ。


「子供、紳士たる我の名乗りを妨げるとは万死に値する、この吸血鬼、カル──ぼぁっ」

「出し惜しみなしだ、聖銀系のアイテム全部つぎ込んでやる!」

「待て貴様?!」


 俺は相手が動き出す前に次々と隠し持っている道具を取り出して攻撃を開始する、相手の名乗りが何だ、口を開いているならそこ目掛けて銀杭くらい投げるわ!俺は恥ずかしい名乗りなんてしたくないと常々思っているんだ、お前の名乗りなんか聞く必要ないわ!!



 俺が投擲した銀杭は吸血鬼の顔の半分近くを消しとばした、有効な攻撃手段だ。胴体と離れたままでは回復できないようで吸血鬼は左手で魔神像を抱えたまま右手で自分の頭を胴体にくっつける。下僕のふたりは首に巻きついたワイヤーから衣服に火が燃え移ったようで苦しんでいる、今なら吸血鬼だけを相手に畳み掛けることができそうだ。

 左腕に巻いた布を縛るロープを外した、素早く右手に絡めて左手で拾った石の瓦礫を紐に乗せ手首のスナップで鋭く1回転させて投擲、スリングショットだ。それを続けてふたつ放つ、吸血鬼の身体は物理攻撃を無効化するから瓦礫は霧を通るかのようにすり抜ける。


「目的はそっちと!」


 吸血鬼の僕の胸部あたりに瓦礫が突き刺さる、射線を合わせれば牽制に見せかけて吸血鬼を盾にした攻撃だって出来る、これもキースに教えられた戦略のひとつだ。吸血鬼に物理攻撃が効かなくてもその下僕がグールや類するものなら効果はある、そして俺はスリングで3投目を放った。


「そんなものが何度も!この吸血鬼カル──ぐぁっ?!」

「おっと失礼、聖水の小瓶を混ぜさせていただきました!」


 お前の力で瓶を振り払えば粉々になった聖水のシャワーを浴びるようなものだ、素通しすればダメージがなかったものを、その前の投石で瓦礫だと思い込んだな。力やスピードで及ばないなら虚実を混ぜて相手を翻弄しろ、これも戦略だ。

 とはいえ決定打に欠けているのは事実、吸血鬼はその右手と上半身に聖水を被り焼けたような白い煙をふいているが、傷は広がらずどんどん治っていく。圧倒的不利だという思いを禁じ得ない、しかしそれを気取られてはならない。俺以外の昏倒して倒れ込んだ3人に目をつけられても防ぎ切る方法がないし、今は俺だけに意識を向けさせる戦い方をしなければいけない。俺は倒れているニック目掛けて飛び退きその長剣と小さめのラウンドシールドを剥ぎ取って、ニックの首根っこを掴んで遠くに蹴り飛ばした。タキとセシリアが倒れている方とは別、逆方向に蹴り飛ばしたから一瞬だけ吸血鬼の意識がそちらに向いた。


「聖水付きの円盤でも喰らいな!」


 奪い取った剣とシールドに小瓶の液体をかけ、俺は円盤投げのようにラウンドシールドを飛ばした。俺は低い構えから上に向けて回転するシールドを投げ飛ばすが、吸血鬼は1歩引いてそれを躱す。だが躱されるのは前提だ、吸血鬼のその1歩に合わせて俺は自分の体を右側に低く大きくジャンプさせ、吸血鬼と下僕の横から長剣を構えて襲いかかる。魔神像を持った左手から襲い掛かれば、奴は像を守る姿勢に入らざるを得ないはずだ。


「行け下僕よ我が盾となれ!この吸血鬼カル──!?」

「ほら吸血鬼、後ろがお留守だよ!」


 投擲したラウンドシールドは広さに限度のある祭事室の天井ギリギリを狙う角度で上に飛ばした。投げる角度が水平に近ければ円盤はそのまま横に飛ぶが、上向きなら旋回して手元側に戻ってくる。軽い円盤なら長く飛ぶだろうが、警備隊が防御用に使っているラウンドシールドは小さいとはいえ重さは十分にあるから落下は速くなる。俺の狙いはふたりの下僕のうちどちらかに「たっぷり油をつけた」円盤を背後から当てることだ、粘度のある油じゃなきゃ円盤の回転で吹き飛んでしまうだろうが!


「GYAUUUU!?」


 司祭服の女下僕の背中にラウンドシールドが回転して突き刺さり、油を伝って火の手が背中にも回った。暴れた下僕が吸血鬼にぶつかってくれるとは、正直狙い通りに当たるかどうかすら賭けだったのに、これは敵1体をほぼ無力化できた綱渡りのような偶然の賜物だ。俺は運を司るサイコロの目に感謝しつつ、吸血鬼に襲いかかるふりをして女戦士の下僕に真っ直ぐ長剣を突き出し、俺が手にした油付きの剣へ炎を燃え移らせた。物理攻撃が無効なら火炎だ、最初からそのつもりで聖水だと謀らせていただきました!


「吸血鬼でも火なら、どうさ!」

「むっ」


 長剣の扱いは不慣れだが、大人ひとり軽く持ち上げる俺の筋力なら剣を振るうことに問題はない。両手で構えた燃える剣を吸血鬼の左肩から袈裟斬りに振り下ろし、充分な手応えを感じた俺は相手の顔を見やった。ゾワリと冷たい舌で舐められたかのような悪寒が走る。


「どれ、試してみるか」


 何の痛みも感じていないのか、吸血鬼は胸元まで切り裂かれた傷を気にする様子もなく俺の顔を覗き込んできた。目と目が合う、瞳から冷たい針を差し込まれたような痺れを感じて、俺は空いていた左手で首元の赤く燻んだ布で視線を遮るように振り、引き抜ける様子がない長剣は即座に手放して後ろ飛びに逃げて距離を置いた。

 あれは魔眼というものか、それとも魅了チャームの類いの魔力を流し込まれたのか、俺は痺れる頭を2、3度強く振って意識を保った。いかん、そろそろこっちの手持ち道具は尽きてきたのに相手は余裕がある。

 吸血鬼は切り裂かれた傷に燃え移っている炎を冷たい吐息で掻き消すと、傷と傷の間が糸を引くように結ばれ始め程なく元通りに治してしまった。多少のダメージは意にも返さないというのか、吸血鬼は塞がった傷に刺さったまま残った長剣をずるりと抜き取って石床に叩きつけた。流石に並の魔族ではない、俺の額に冷たい汗が流れる。


「どうやって魔素の伝達を断ったのやら、面白いな、興味が湧いた」

「これだから吸血鬼は!」

「昏倒せず、魔眼も通らず、しかし魔素は感じない────その布か?」


 吸血鬼が自分の下僕の胸元に右手を突き刺した、女戦士の身なりをした下僕は声をあげる間もなく乾いてひび割れ崩れ落ちた、エナジードレインだ。それが終わると吸血鬼は左肩の凝りをほぐすように肩をぐるりと回した、魔素を補給したのか。吸血鬼といえどダメージは蓄積していたのだと安心したのも束の間、回復させた分が奴の攻めの手に使われてしまう。


「それ、逃げるが良い子供よ、1枚ずつ剥き1本ずつ折り悲鳴を奏でさせてやろう」

  

 吸血鬼は両手を広げ、歩くこともなく床の上を滑るように俺に向かってきた。

 

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