第10話 その日に彼女と会うということ

 先生の脚本は、実際に起きた冤罪事件を基にしていた。かなり重めの内容で、軽く劇場に入って観るものとしては、相応しくないと言えるくらいだった――とはいえ、私は観劇を趣味としていないし、女の子との話の材料以上の目でドラマも見ない、完璧な素人だからあまり的を射た意見も出せないわけだが。

 演出家さんが紙束から視線を外さずに、言う。

「重い」

「それを希望されたから、書き直したんだがな」

「湿度を上げろ、っていう意味だ。胃に残るストレスにしろとは言ってねぇな」

「その要望にも応えているだろう」

「にも、が余計だ。にだけにしてくれ――俺はいいが、実際に演じる役者にはダメージになる重さだよ、これは。お前、これを演じるカロリーを計算したか?」

「プロなら問題ない」

「プロなら使い潰してもいいわけじゃねぇんだよ」

 言い争いのようだが、二人とも抑揚のない声である。先生は演出家さんを見ているが、彼は紙束から視線を外さない。

 不思議な二人だ。好きと嫌い、損得、そんなわかりやすい概念で繋がっているとは思えない――そして私は自分の場違い感を味わっていた。この二人の間に私は入り込めないし、何か言っても意味はないとわかる。

 なるほど、だから演出家さんは部屋に引っ込んでいい、と言ったのだ。どうせ俺たちは君を視界に入れる気はない、という意味で。

「修正依頼のついでに締め切りを一週間も早めるクライアントが、文句もつけるのか」

「演出家の権限がてめぇより下なわけあるか」

「なら現場で書き換えろ。俺は文句はない」

「そんな不義理を俺にさせんじゃねぇ、死ね――と、悪い。口がよくないな。くたばれ」

「変わってないな……」

「そうですね……」

 思わず言っていた――そこで、二人は私の存在を想い出したようだった。

「奥さん、君はどう思った? これのホン」

「これって……」

「あぁ、失敬。口がよくなかった。旦那さんの」

「今更、取り繕ってもな……」

 先生の言葉はもっともだったが、取り合っても仕方ない。告げる。

「最後まで見たら、とても疲れそうだと思います」

「だよなぁ。話がわかる人でよかったな、ええ?」

「羨ましいか?」

「お前らが本当の夫婦なら、そうだな、一ミリくらいは羨んだよ」

「つまり羨ましくないんですか?」

「俺は家に帰って待ってる人がいるなら、そんな家にゃ帰らねぇから」

「……重い話ですか? 脚本みたいに」

「どうかな。こいつは独身貴族でいるのが好きってだけだと思うが」

「それ、久しぶりに聞きました」

 私がよく言われていた言葉だが、先生と結婚してから縁遠くなっていた。別に結婚してから生活を改めたわけではないから、変わらずに独身貴族かもしれないが、世間的には私は夫婦の片割れだ。

「とにかくさ、これじゃきついんだよ。誰も彼もがお前みたいに重い話だけで生きていけると思うなよ」

「俺は軽い小説も書くがな」

「だからそれを書けっつってんの。できるのにやらねぇとか、お間マジで性格わりぃな」

「言い換えたな?」

「奥さんの前だからな、上品に行きてぇよ」

「私、邪魔ですか?」

「婉曲的にそう伝えたよね――いや、わりとストレートだったか」

 演出家さんはそこで、やっと私を見た――軽蔑の瞳で。

「失せろ」

「お前な」

「めんどくせぇのよ、他人がいると。別に彼女がいたって、作品の質と関係ないんだろ?」

「まぁ、そうだな」

「嘘でも嫁のフォローしとけよ、お前――その程度の仲なんだろうけどさ」

 そう言われて、傷つく私はいなかった。告げる。

「じゃ、私、適当に外に出てます。九時までに帰ればいいですか?」

「意外とメンタル強いの? この子」

「知らん――九時までには終わっているだろうが、まぁ、節度を持った時間に帰って来ていればいい」

「わかりました」

 傷ついてはいなかったが。

 私は部屋に戻って着替えながら、思った。

 何かこう、不快だったのは確かだった――それくらいの想いしか抱えられないのは問題かもしれないが、馴れ合うつもりはないのだから、そこが限界だった。

「……」

 それでも、嘆息は止められなかった――あいつは、何様だというのか。ある意味では男らしい人ではある。男らしく、醜い。嫌いになろう、と。そう決めた。

 ――吉祥寺の駅前に出れば、時間を潰す方法なんていくらでもある。マンションを出た私は、駅前へと足を向けた。

 若いと自覚しているが、それでも十代の頃のような快活さは失われて久しい。身体のメンテナンスでもしようか、と思いながら整体の店などの値段を確認していく。

先生とは口座は別にしていて、少額の生活費以外はほとんど自由に使える。もちろん、女の子たちのために使う金は高額になるので、自己投資の方面にはあまり使えないにしても、同世代の中では額は大きい方だと思う。

 身体のメンテナンスをして、その後は適当なコーヒーチェーンで時間を潰せばいい。それこそ、先生の本を買ってもいい。私は小説になんて興味ないから、面白くてもつまらなくても評価は同じようなものだし。

「あれ、先輩じゃないですかー」

 と、声がする。聞き馴染みのある声だった――高校時代の後輩で、私がまだ女に不慣れな頃からの知り合いで。

 元カノと言ってもいい子だ。

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