第9話 演出する人
「……あー、あのですね」
男性が嫌い、というわけではないのだが。
仕事以外で年上の男性に接するのは、どこか苦手だ。
「先生は――つまり、夫は、まだ眠っているんですけど……」
訪問者は。
肩をすくめた――演出家、と先生は呼んでいたが、その容姿は腕利きバーテンダーといった感じだ。綺麗で造りのいいシャツに、ネクタイ、ベスト。下はデーパードパンツで、そこだけがバーテンダーらしくはないが、服装だけ見ればそれを連想せずにはいられない。
顔つきは細く鋭く整っている。難しい顔してシェイカーを振っている姿は、さぞ女性受けがいいだろう、と思わせる――演出家だそうだが、モテる人に違いない。
「君が、あいつの……奥さん?」
「え、はい、そうですね……」
「そんな挙動不審な感じはやめてよ。俺は無害だから――なんて自称する男は警戒されるよな、そりゃ。まぁ、いいや。適当に待ってるから、上がっていい?」
「私は、いいですけど……」
「ならいいね。あいつの許可なんてなくても、ここは俺の根城その二だ」
「――ならお前もローンを払え」
と。先生の声がした。
「先生」
「悪いな、君に対応させて――お前な、三十分も早く来るとはどういうことだ」
先生の声は寝起きであることを差し引いても、不機嫌そうだ。私が聞いたことのない声音だ、と気づく。男が男にしか向けない類のものだと思える。
演出家は苦笑した。
「いいから、上げてくれ。いつまでも玄関先じゃ、ご近所迷惑だろ?」
それは至極もっともだったから、先生は嘆息しながら挙がれ、と言った。ここで言い合いをすることで生まれる損得を計算したのだろう。確かに、ここは演出家の提案に乗る方が得をするというか、損をしない。
演出家さんがドアを閉めて、我が物顔で――私よりもそうだ――リビングに足を向ける。
「君は対応しなくていいぞ」
それを尻目に、先生が言った。
「あいつは俺の客だし、今更、妻を見せるような相手でもない」
「それ、どんな関係なんですか」
「腐れ縁だ。きっぱりと捨て去ったと思ったが、思わぬ形で残っていた」
「金は払ってるんだから、メリットの塊じゃんよー」
リビングのソファを独占した演出家さんの声がした。先生は隠さずに舌打ちをした。
「だったらもっとビジネスライクにしろ――まぁつまり、そういう仲にもなれないし、この年齢で友達っていうのもな、しっくりこない。そんなやつだよ、あれは」
先生はそう言ってから、演出家さんの方を見やる。その瞳には、諦めと言うか、仕方ない、とでも言うような境地の色があった。
「脚本を持ってくる。余計なことはするなよ」
「あいあいさー」
演出家さんの返事は軽かった。先生の言葉よりは、気安い関係なのかもしれない。
私は妻らしい行動を、と思って、コーヒーでも淹れようかと動くことにした。偽装結婚だと迂闊に露見するのはよくないのだし、別に私は男が苦手というわけでもない――と、自分に言い聞かせる。
「コーヒーでいいですか?」
「水でいーよ、水で。どうせ何杯も飲むんだから、変に利尿作用あるものはアレだしね――おっと、これは失敬。汚い話を」
「いえ、いいですけど」
男は苦手ではないが――この人は苦手かもしれない。思いつつ。
リビングからキッチンに入り、グラスにミネラルウォーターを注ぐ。普段は水道水を飲んでいるのだが、女の子受けを考えて、念のために用意してあったものだ。
「どうぞ」
「こいつぁどうも。気が利くようだけど、いいよ? 部屋に引っ込んでても。俺、君みたいな年下の子はさ、演出家としてしか交流ないから、まぁ俺が苦手ってそういうアレもあるんだけど、でも、君も苦手でしょ? 俺みたいなの」
「……そんなことは」
「嘘が上手いね。騙されてあげよう」
つまり見抜かれているのだ。先生といいこの人といい、聡い人はこれだから困る――鈍感ならそれはそれで文句をつけるのだが、それは棚に上げておく。
私は演出家さんの対面に座り、問う。
「先生とは、長いんですか?」
「君よりはね――深いかどうかは、まぁ、わからないかな。君、あれでしょ? あいつの妻役」
「役……」
「それとも、本当に奥さんやるの? やらないでしょ」
「……まぁ、やりませんけど」
「だよね。まぁ、そもそもあいつが誰かを本当の意味で奥さんにすることなんてありえないだろうけど――あいつ、気が利くようで、すげぇ気難しいやつだからさ、たぶん、君とはちゃんとした意味じゃ語り合わないよ」
「あなたは例外だって言ってます?」
私が言うと、演出家さんは趣味の悪い笑顔を浮かべた。
「そんなことはないよ。俺も君と同じ。違いは付き合いの長さだけだな。あー、いや。あれか。俺とあいつはビジネスライクな友達で、君たちは利害関係の一致した夫婦なんだから、きちんと違うかな」
「非難しているように聞こえます」
「そいつぁ失敬。でも、俺はいいと思うよ、君らの関係。男女関係なんてのはさ、湿っぽいよりもドライな方が好感が持てるっつーか」
「――つまらんこと言ってる暇があるなら、妻を解放しろ馬鹿が」
先生の声だった。言葉は怒っているようだが、声音は淡々としている。それが私の評価なのかもしれない。
「先生、言い方がひどいです」
「そうでもないよ。こいつ、本当にどうでもいいやつには優しくするもん――で、ホンは?」
「これだ」
先生が演出家さんに紙束を手渡すと、彼は笑った。
「いい加減、タブレット使えよ」
「それは妻にも言われたが、断る。俺はパソコン信者なんだよ」
「面倒なやつだよ――あぁ、奥さん、本当に引っ込んでいいよ? ここからは、君を気づかう余裕はない、わけじゃないけど、無駄な労力ではあるからさ」
優しいようで、優しくない言葉だった。たぶん、演出家さんの周囲にはそんな彼を好きな人は多くないのではないか、と思った――演出家という仕事ができるから人がいるのであって、それ以上の価値を見出す人はいない、と思う。
だから、私は言った。
「私も読みたいです、先生の脚本」
「君、興味ないんだろう?」
先生は意外そうだったが。私は言ってやる。
「先生の予想の範囲内でしか行動できないなら、先生、私に価値を見出さないでしょう?」
「いやぁ、どうかな。それの中でしか生きないなら、それはそれで旨味があるぜ」
「……俺の分も印刷したから、それ、読むか?」
「いいんですか?」
「打ち合わせのルーティーンとして印刷しただけで、俺は読まなくても一字一句、頭に入ってるから問題ないんだ」
「お互いにホンを見ながら修正点を挙げてく方が効率的だから、ってことでね、昔からそうしてんだよ」
演出家さんは先生との仲をアピールするように言ったが。
それで私の心がかき乱されることはなかった。私にとって先生の評価はその程度だった。
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