第8話 そういう朝にビターチョコ
「また朝飯を作らせてさよなら、か」
「いけませんか?」
先生の言葉に、私は軽く返した。
――夜が明けてすぐに、少女は朝食を作って新宿に帰って行った。今ここで駄々をこねても自分に得はないという計算ができるくらいには、彼女は大人だったのだろう。だから、次はない。もう二度と彼女とは関わらない。
朝食は、彼女なりの名残なのだろう。はっきり言って、一見しただけで味が良くないのが想像できるわけだが、わざわざコンビニで食材を揃えて作ってくれたのだからあまり文句は言いたくなかった――言っているが。
「……徹夜明けには、少し重そうだな」
先生がソファに座って言う。
「珍しいですね、先生、徹夜は嫌いなんでしょう?」
私も同じように座った。朝食を取る気にはなれなかった――それを罪悪感と呼ぶのか、ただ単においしくないものを忌避する本能かは……。
「小説と脚本の締め切りが被ったんだ。本当は先に脚本を仕上げるつもりだったんだが、演出家がごねて、色々とずれた」
「それで、完成したんですか?」
「小説はな、さっき送った。脚本は午後に演出家と打ち合わせて決める――そのために、今、プリンターが稼働しているよ」
「タブレット使った方が楽ですよ」
「パソコン至上主義なんだ、鞍替えするつもりはない」
「こだわりですねぇ」
どうでもいい話だったが、気になることもあった。問う。
「その演出家? さんとは、どこで打ち合わせですか? 土日の吉祥寺ですよ、そうそうゆっくり話ができる店は空いてません」
「あぁ、そうか。今まではうちだったから、忘れていた――どうするか……」
先生は本気で失念したようだった。それを意外、と思えるほどの付き合いは、私たちの間には存在していなかった。
「いいですよ、うちで」
私が言うと、先生は驚いたように眉を顰める。
「君の知らない男がうちに来るが、いいのか?」
「それくらいは構いません。私が邪魔なら、適当にぶらぶらしてますし」
「その間に女の子を見つけるか?」
「さすがに、今朝別れたばかりですから。それくらいの慎みはあります」
「健全なんだか、不健全なんだか……」
「不健全ですよ」
私がそうでなければ、世の大体の人が不健全になってしまう――私は穢れているのだろう。それはわかっている。
「なら、午後の一時過ぎには来るだろうから、そのつもりで――俺は飯を食ったら、少し眠るよ」
「きついんですね?」
「君も三十を超えれば、徹夜の辛さがわかるようになるぞ――ついでに言うと、自分の仕事にケチをつけられるだけの日々に嫌気も刺す」
それはつまり、小説家と編集の関係のことなのだろうが。
まぁ、私には関係のないことだから――先生の仕事はどうでもよくて、マンションのローンさえ払ってくれたらいいのだから――、何も言わずに少女の作った朝食を食べることにした。絵に書いたような、洋風な内容だった。
「……微妙ですね」
「作らせておいて言うことか」
「今まで、聞き咎めるような人いませんでしたから」
「これからは気を付けるか、俺を同席させるなよ」
「そうします――でも、これよりおいしいのも、おしくないのも食べたことありますよ。どれも似たような味がしていましたね」
料理に込められた愛情、とでも言うのだろうか。私はその重みが嫌いだったが、世間一般的には好まれるものだと聞いている――愛情は最高のスパイスだ、と。馬鹿の妄言だ。
「料理こそ算術だって、意外と知らない人が多い気がします」
「君が言っても説得力ないな。食べる専門だろうに」
「だから言える意見もあります。料理なんて、ちゃんと足し算するか、うまく引き算するか――それだけですよ。そこを間違わなければ、素人だっておいしいものが作れます」
「掛け算と割り算はないのか?」
「割り算は知りませんけど、掛け算はプロの仕事でしょう? 家庭の味じゃないです」
もちろん、私は料理をしないから、本当に無駄な言葉だ。食べるプロ、なんてものになれるほどの経験だってないのだし。
食事を終えて、片づけを手伝うと言う先生を無理矢理、寝室――と言っても仕事部屋と同じだが――に押し込んで、私は洗い物を済ませた。夫婦なのだから共同作業をしてもよかったかもしれないが、睡魔と戦いながらではこっちに余計な負担が増えるだけだ。
「まぁ、それに」
つぶやく。
「妻らしいこと、してみせないとね」
これからそれらしく振る舞う必要があるから、そのための準備だと思えば――演出家と先生の関係は知らないが、対外的には結婚しているわけだから、上手いこと対応してみせないといけない。
それくらいの危険は予想していたが。
いくらか早い、と思うのは止められなかった。
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