第6話 セリフのない日に

 平日の日中、私は仕事で銀行の窓口で適当に笑顔を振りまいている。電子化が進んでいるから、定年退職する年齢まで残っているとは思えない業務だが、まぁ、あと十年はなんとかなるかもしれない、と楽観的に考えている。

 銀行に就職した理由は、窓口業務はさておき、どれだけ電子化が進んでも何かしらの形でこの職種自体は残る、と思ったからだ。幸い、私は顔がいいから、営業に回されてもそれなりに仕事ができる、という甘い目論みもある。

 勤務先は渋谷の大手銀行だ。この店に配属されたのは偶然だが、渋谷で働いている、というと女の子に受けるので、その点ではありがたいと思っている。吉祥寺から京王井の頭線で一本で着く、というのも魅力だ。

 以前の高津も電車で一本ではあったが、朝の通勤ラッシュの激しさは比べようがないほどだった――田園都市線の朝は乗車率が百を超えるのが当たり前で、座ることはおろか、まともに立つことすらできない有り様だった。

 それに比べて、京王井の頭線は吉祥寺が始発で、渋谷が終点である。座ろうと思えば少し苦労するだけで座れるし、立っていてもそこまで苦痛ではない。先生との偽装結婚はそういう形でのメリットも私にくれた。

 私が銀行で愛想笑いをしている間、先生が何をしているか知らない。いや、仕事をしているのだとは思うが、生憎と、私は小説家の仕事になんて興味はないのだ。吉祥寺のマンションでの暮らしを維持できるだけ稼いでくれるなら、私としては文句はない。

 生活費は先生と私で折半だが、マンションのローンは先生独りで払っているから、先生の収入が途絶えるとあそこでは暮らせない。私も出す、と言ったのだが、先生は、俺のマンションだから、と言って譲らなかった。

 正直に言えば、それはありがたい。家賃なしで生活できる、と同義だからだ。生活費は出しているとはいえ、大した額ではないのもある。食事は休日以外は基本的に各々で取るからそこには含まれないし、先生は空調をあまり使わないので、光熱費も大してかからない。

 スマホの料金も、家族割などを利用しているわけではなく、それぞれに払っているので生活費には含んでいない。

 結果、生活費とはいってもかなりの少額になる。独り暮らし時代よりも、かなりそれに使う金額が減ったから、その分を女の子に使える。これは大きい。

 昼は休憩中に同僚と適当に話すこともあるが、この時間帯は利用者が増える時間でもあるので、ばたばたとしている間に過ぎていき、その先でやっと休憩、ということも珍しくない。役所のように、昼は完全に休み! なんて殿様商売はできない。

 昼食は、自炊すらろくにしないのだから当然だが、何かを買うか、どこかの店で食べることになる。私は小食で、誰かと一緒じゃなければ、店に入ることはあまりない。だから大体はコンビニでおにぎりかパンを一個買って、それで終わりだ。

 同僚から心配されることもあるが、たぶん、私は食に対してあまり関心がないのだと思う――少なくとも、私独りの食事ならば、私はほとんど気を遣わない。女の子との食事ならば、話は違ってくる。私は下見や準備を欠かさないだけのマメさはあるつもりだ。

 職場の女に手を出さないのか、と以前、友人に言われたことがある。そんな馬鹿なことはしません、と答えた。職場という日常的に訪れる場所に、一晩の恋でしかない相手がいたら、それは不快でしかない。そこまでは言わなかったが。

 私は顔がいいし、小食のおかげかスタイルもそれなりにいい。胸は小さめだが、身長は高いと言っても突出しているわけでもない。もう少し肉付きが良ければ、男性の理想の女であったかもしれないが、そうでなくてよかったというのが本音だった。

 ともあれ、そのせいか私は中性的だ、と言われることもある。そこが女の子に受けるのだからまった不満はない――が、変な男を引き寄せるのもまた事実だ。

 そういう手合いの相手をしたくないから、職場の人とも深い仲にはならないようにしている。たまに相談がある、と同僚から言われることもあるが、適当に話を聞くだけで他の何もしない――誰だって、自分の味方にならない相手に興味を持たないものである。

 その意味では、先生はおかしい。

 彼はあくまで、自分に利益があるから私と結婚した。それはつまり、自分の味方だと思ったからだろう。私のどこを見てそう思ったのかはわからないが、先生らしくない判断だと思う。

無論、先生は敵味方よりも損得勘定を先にする人だから、どれだけ私が先生の味方をしようとも、損を生むようになれば切り捨てるに違いないが。

 先生は情なんてもので判断を狂わせない。その意味では、人間的ではない。人間どうしたってそれを抜きに生きることができないものだ。先生のように何もかも損得勘定で割り切れる人なんていうものは、そうはいない。

 私はそんな人の――姿をした別の生き物かもしれない――妻だ。不満はないし、不安もない。私が先生に得を与える存在である限り、婚姻関係は途絶えることはない。

 先生にしてみれば、私と結婚しているという事実こそがそれにあたる。だからこそ、私は先生に捨てられない――安心して、女の子たち刹那的な関係に興じられるわけだ。

 安心というものはなかなか得られないし、一度でも逃がせば、二度と手に入らないことだってありうる。その意味でも、先生は得難いパートナーになる。私も大概、打算しかしていないが、男との距離なんてものはその程度である方が望ましいと、私は思っている。

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