第5話 自炊の価値は

帰宅する前に、夕食を食べることにした。私は二食連続でラーメンでもよかったが、先生はやめてくれ、と言ったので、適当な居酒屋でつまみを食べつつ、酒を飲むことにした。明日は月曜日だから、私は深酒ができないし、先生は帰宅したら執筆をするというので、やはり深酒はできない。

 特別、酒が好きな夫婦というわけでもない。そんな心持ならば居酒屋に入るな、と思われるかもしれないが、夜の吉祥寺という街は居酒屋かラーメン屋ばかりが眼をつく。表向きはイタリアンだとかでも、酒を飲むことは避けられない店が多い。

「こういう時」

 先生が言う。

「自炊って選択肢もあった方がいいかなって思うんだ」

 入ったのは典型的な居酒屋――つまり、節操なしに何でも提供する類の店だ。チェーン店でないのは、私がいつか使えるかどうかを決めるためだった。チェーン店ではないいい雰囲気の店を知っている、というのは大きなアドバンテージとなる。

 先生は刺身や煮つけなんかの和食で日本酒を飲んでいる。年齢相応といえば、そうかもしれない。対して私は、肉を中心にして、ハイボールだ。炭水化物を過剰に取らなければ、変に太ることもない年齢だからこそ、肉を食べる。揚げ物は避けつつ、だが。

「嫌ですよ、料理とか。私はしませんよ」

「わかってるよ。だから俺が作るって言ってんだ」

「先生、料理が上手ってわけじゃないんですよね? それも嫌ですよ、私。ご飯がおいしくないと人生を投げたくなります」

「そこまでまずいもんは作らんよ。男の料理だから、いくらか味は濃いかもしれんが」

「ご飯のおかずになればいい、的な発想ですか。運動部じゃないですよね、先生」

「昔は運動も少ししたよ」

「そうなんですか? 何をしてたんです?」

「空手。中高生の頃だ」

 それにしては、線の細い身体で先生はちまちまと日本酒を飲む。豪快さというか、運動部ならではの奔放さは感じ取れなかった。

「あれですか、腕を磨くよりも礼節を極めるとか、そういう」

「どうだったかな。同級生は全国大会に行きかけたが、俺はそうでもない――必要に迫られてやっただけだから、大会で上を目指すとかは、なかったな」

「必要、ですか」

「育ちが悪いんでね。暴力を身につけないと、健全に生きられなかったんだ」

 そこで踏み込めば、先生は何か言ったかもしれないが――私にそんな権利はないし、意欲もなかった。先生の過去を知っても、私には何の得もない。先生は損得を計算して、勝った方次第で対応を変えるだろう。偽装でも妻なのだから、自分の過去を言ってもいいかもしれないと思えば、先生から言うかもしれなかったが、先生は特に言葉を続けなかった。

 お互いに踏み込まない。明言はしていないが、たぶん、それが私たちのルールだ。実際、先生はどうして偽装結婚をしたのか、その真意を知らない。

 先生には、結婚しないと親がうるさい、と言ってある。先生はそれを信じたかはわからないが、あながち嘘でもない――真意が別にある、というだけだ。

 いつか、それを話す時が来るだろうか。

 日本酒を大事そうに飲む先生を見て、思う。

 ないだろう。私は断じる。先生にも、一夜を共に過ごしてくれる女の子たちにも――誰にも、私は何も言わない。肉体的な交流をしても、真実、心の交流は取らない。それが私の限界であり、他に行ける場所はない。

「色々ありますよね、人生って」

 それはいかにも中身のない言葉だったが。

 先生は気にも留めないようだった。きっと、私がそうしてくれることを望んでいる、とわかっているからだろう。そういう都合の良さもまた、私が先生を選んだ理由だった。無知ゆえの沈黙ではなく、聡いがゆえの沈黙。先生はそれを選べる人だ。

 私にだって、色々ある。でも、それを語りたくはない――言葉にすれば、どんな想いだって陳腐になってしまう。それが、人の持つ言葉というものの欠点だ。言葉は万能だと思う人もいるそうだが、現実には、それは欠点だらけで、使い物にならない。

 だから私は、身体を重ねる道を選んだ。心や言葉は信じられないが、身体の生む熱というものは信じられる――その発想が健全かはわからないが、そうすることでしか、私は生きられない。

 どれだけ達観してみせても、誰かとの繋がりを持たずに生きられるほど、私は強い人間じゃないんだから。

「先生」

「ん?」

「味の濃い料理、私、嫌いじゃないですよ」

「嘘でも好きって言えよ」

「やですよ、見抜かれる嘘を吐くとか――意味ないです」

 先生は苦笑した。嘘が通じない相手に嘘を吐くのもまた、無意味だった。

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