第2話 偽装とはどこから偽装なのか

 偽装結婚。

 私と先生の関係は夫婦だが、愛し合った記憶はひとつだってなかった。なんなら、先生の手を握ったことさえも、私にはない。これは私の趣味の問題もあるが、先生の方にも理由はある――先生は勃起不全を患っている。それも十年以上。

 同性愛主義者の私と、勃起不全の先生。だが二人とも世間にはその事実を伏せているため、理解のあるパートナーが欲しかった。

 そんな折、ひょんなことから私と先生は出会って……戸籍上、夫婦になったわけだ。

「結婚というのは、結局は損得勘定でしかない」

 婚姻届けを出す前に、先生はそんなことを言った。

「愛情などで築かれた関係よりも、単純な損得だけで繋がっている方がよほど健全だし、長持ちするものだ。愛情は色褪せていくが、損得は互いに役割をこなしている限り、拡大しても縮小はしづらいからな。離婚する夫婦というのは、大概はその辺の計算が下手なんだと相場が決まっている――裏切られた、なんて思うような関係なのが悪いんだよ」

 まぁ理屈っぽい人だとは思ったが、それくらいのドライさがないと偽装結婚なんてものはできない。情に厚い人は、責任だとかなんだとか理由をつけて、夫婦らしくあることを求めてしまって、言いたくはないが、不快な存在に成り下がってしまう。

 ――そんな先生と、私は吉祥寺の街を歩いている。

 私が先生をパートナーに選んだ理由のひとつに、この吉祥寺という街に住んでいることが挙げられる。お洒落な街かつ、住みたい街ランキングで常に首位かそれに近しい順位をキープする街は、女の子受けがとてもいい。

私が元々暮らしていたのは高津という川崎市の地味な街なのだが、その名を出すと気持ちが下がる子はいたが、吉祥寺と聞いて下がる女の子というのはまずいないくらいだ。

「日曜日だとさすがに人が多いですね」

 吉祥寺、それもハーモニカ横丁近くなんてものは平日でもそれなり以上に人がいるが、休日の比ではない。もちろん、渋谷だとか新宿よりはマシだが、それでも、地方出身の私には多過ぎる、と思えてならない。

 そういう街が、昔は嫌だった。だが、三か月も暮らしていればそれなりに馴染んではくる。生粋の東京人である先生からすれば、私は今でもお上りさんなのだろうが。

「こんなものだろう。それで、結局、店は勘頼みか?」

 店を決めずにマンションを出ていた。苦笑する。

「正直、どこだろうとおいしいですし――おいしくない店が生き残れるほど、吉祥寺は甘い街じゃないでしょう?」

「そうだな。が、君に言わせれば牛丼チェーンもこじゃれたイタリアンも同格になってしまう」

「大切なのは店の味よりも、誰と食べるかですよ。かわいい女の子と一緒なら、大抵の店は名店です」

「俺とは、どこでも二流店か?」

「どうでしょう。お好きな答えをどうぞ」

「それが答えだな」

 もっとも、本当に先生との食事が嫌なら、私の方から誘ったりはしないし、たぶん、先生が想定していた夫婦生活はそんなものだったはずだ。

 先生は最後の恋愛から二十年ほど経っているとかで(つまり学生時代の恋愛が最後になっているわけだ)、ほとんど恋愛に興味がない。だからか、私よりも偽装結婚が性に合っていると言えるほどだ。

 そのくせ、先生の書く小説は恋愛ものが少なくない。先生いわく、リアルな恋愛を知らないからこそ自由に想像できる、とのことだが、私はあまり恋愛小説が好きではないからよくわからない――実際の肉体と心を通わせるのに比べたら、創作の恋愛なんて児戯みたいなものでしかないからだ。

 とはいえ、先生とのデートは嫌いではない。偽装の夫婦だからという義理ではなく、自分から好意を持って誘うくらいには好きだ。それは単に、先生がまったく恋愛感情というものを匂わせないものだから、かもしれないが。

「先生、恋愛に興味ないくせにわりと、聡いですよね」

「小説家だからな。小説家は、極端に鈍感か聡いか。どちらかでないとなれないものだ」

「つまり、鈍感の可能性もあるんですね?」

「当然だ。自分ではそうではないと思っているが、実際のところはわからん」

 先生は張りのある声で言った。昔、少しだけ役者をやっていたとかで、先生の声はいつだって聞き取りやすく、はきはきとしている。私はと言えば、窓口業務なんてやっているから、それなりに声は通る方だ。

 そんな私は、だいぶラフな格好をしている。女の子とワンナイトするならばそれなりに力を入れるが、先生と食事をするだけなら、力を入れる理由はないからだ。一般的に、愛する夫とのランチデートなら着飾るかもしれないが、どんなことを言っても、私たちは偽装夫婦でしかないし、ご近所付き合いで見栄を張る理由もない。

 先生はどんな季節でも、Tシャツにジャケット、スラックスというスタイルを崩さない。さすがに夏はサマージャケットにするようだし、冬は厚手のジャケットになるが、ほぼ一年間同じような格好をしている。

「こういう格好なら、どこにだって入れるからな」

 と、先生は言っていた。ノーネクタイで入店できないことはあるかもしれないが、まぁ確かに、ジャケットスタイルなら大抵の店は入れるし、シャツとネクタイを用意すればどうにでもなるのだから、効率的かもしれない。

 そんな先生と出かけるとき、私はナチュラルメイクだ。本音を言えばノーメイクでもいいが、女には女の世界のルールがあり、どんな時でも最低限のメイクをしなければならない。どれだけ顔が良くても、あるいは、顔がいいからこそそういうものに縛られる。

「先生、私、綺麗ですか?」

「ああ。誰が見てもそうだよ」

「ですよね。私、顔とテクニックには自信があります。今の職場だって、ほとんど顔で入ったようなものです――あぁ、でも、枕はしてないですけどね。出世したくもないですし」

「世の女が聞いたら、顔を真っ赤にして起りそうだな」

「地獄の底まで私と添い遂げてください」

「まぁ、考えてはみるがね」

 そこで拒否しなかった辺り、先生はいい人というか、良くも悪くも損得でしか人間関係を見ていないのだろう――地獄に行くにしても、そこに損しかないならば、先生は自分独りだけでも回避するすべてを見つけるかもしれない。

 私にそんな能力はないから、たぶん、独りで地獄行きだ。自分が天国に相応しい人間ではないことくらいは、百も承知している――夫のいる女と寝た経験なんていくらでもあるし、定期的にそういう人から金をもらって寝ている女なのだから、それは当然だ。

 先生はその辺りも把握した上で、私と偽装結婚をした。その真意を、私はまだ知らないし、これからも知ることはないかもしれない。私たちの間にある愛情とは、そんなものでしかないのだ。

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